2017年9月12日火曜日

昔の小金井祭パンフレット

 「小金井祭」というのは東京学芸大学の学園祭です。近年は毎年11月の初めの文化の日前後に開催しているようですが、以前は11月終わりの勤労感謝の日前後に開催していました。

左の写真は、古本屋で入手した大昔の小金井祭のプログラムを載せたパンフレットです。見るからにとても古いものですが、開催年が書かれていません。いったい何年頃のものなのでしょうか。
1日目のプログラムを見ると、講堂では「演劇コンクール」参加の演劇の題目が並んでいます。職業・家庭科(?)、数学、国語、社会など、クラス参加形式のようです。

ちなみに、「講堂」というのは陸軍技術研究所時代からの施設で、現在の大体育館の北側あたりにあったようです。

さて、「渡邊薬局 小金井町郵便局南隣」という広告があります。現在武蔵小金井駅北口のドンキホーテ西側の道を北に行って北大通りとぶつかる角にある小金井郵便局のことでしょうか。しかし、南隣に薬局らしきものがあったような気がしません。ウィキペディアで「小金井郵便局」を調べてみると、1968年11月18日に開局と書かれていますが、脚注に「同年8月以前にも市内に小金井郵便局が存在した(かつての所在地は前原坂上交差点の南東角であった。現在は場所が移動して小金井前原三郵便局となっている。)」とありますから、こちらの前原坂上交差点にあったという以前の小金井郵便局の南隣に渡邊薬局があったのかもしれません。このあたりは現在はマンションが建っていて、薬局らしきものは見当たりません。

2日目のプログラムも「演劇コンクール」の続きです。やはり国語、幼稚園、数学、社会、特殊教育とクラスの名前が並んでいます。「新聞会アトラクション」とは何でしょうか。

さて、広告欄です。「洋品と服地の店 大沢洋品店 小金井南口大通り」というお店は検索しても出てきませんが、武蔵小金井駅南口南一番街の一覧に「大沢花園」という花屋さんが見つかりました。代替わりで業種が替わることはあるのかもしれません。ただし、この花屋さんがあった場所は現在は1000円カットのお店になっています。

次の「かごや百貨店」は、検索すると武蔵野法人会のページに情報がありました。同会の2009年10月の会報の表紙に「前原坂上交差点から北に南口大通りを見る。メインストリートなので逸早く舗装が行われたようだ。左右手前にあるかごや百貨店では、当時の生活に欠かせない薪や木炭などが売られていた。昭和29 年(1954)ごろ」とあります。現在、前原坂上交差点すぐ北東側にある「かごや書店」がその現在の姿だろうと思います。

三つ目の「御菓子司つちや製造小売 支店小金井学大通り」の「学大通り」とはどこの通りのことでしょうか。

のいずれかの別名なのだろうと思いますが、戦災で焼失した官立東京第二師範学校(旧東京府立豊島師範学校)が戦後すぐの1947年に池袋から小金井に移った当時の正門の門柱の石が上の原通り沿いの新小金井街道よりも100メートルほど東側に1997年頃まで残っていたと言われている(筆者も見たことがあります)ことからすると、この上の原通り、つまり西友の裏通りを「学大通り」と呼んでいたのではないかと思います。

だとすると、「御菓子司つちや」は西友裏あたりにあったと考えられるのですが、西友裏のドトールの隣にある「そば処つちや」という蕎麦屋さんが何か関係ありそうです。
 ※「御菓子司つちや」が現在の「そば処つちや」であることをつきとめた方がいらっしゃいました。地主恵亮さんのブログ「多摩川源流大学」の2017年4月20日のエントリー「50年前のガイドブックで食事と買い物に行く」に書かれています。

3日目のプログラムはサークル公演で、人形劇、放送劇、演劇、ダンスと、時代を感じさせる演目です。

広告欄を見ると、まず「おそばは はっとり 小金井駅北口前」とあります。北口前に西友ができる前の写真、例えば「たまちゃんと見よう!たまの写真いまむかし」のページを見ると、西友の1階にかつてあった旧第一勧銀小金井支店あたりの位置に「生蕎麦(食)堂」という看板が掲げられた店があり、写真説明に「建設中の西友と左に服部そば店」とあるので、これでまちがいないでしょう。この写真は1965年撮影です。

次の広告「文房具の御用は あぶらや文具店 小金井駅南口」は今のところ手がかりが得られていません。

「中村文具店 小金井駅南口」は現在も健在で、ウェブサイトまであります。「武蔵小金井で60年続いた文具店三代目です。再開発の道路拡張で駅前の店舗(先述の大沢花園の小金井街道を挟んだ向かい)は取り壊しを余儀なくされましたが、小金井神社付近に古文房具のお店を開いています」とあります。この古文房具のお店、ちょっと行ってみたくなります。


4日目のプログラムは体育館で音楽関係サークル公演。ただし、童謡やクラシックばかりで、フォークもロックもありません。

ちなみに、「体育館」というのは現在の新小金井街道に面した「グラウンド門」、かつての「プール門」を入ってすぐ左、現在「学芸の森保育園」が建っているあたりにかつて存在した施設のようです。

さて、広告です。「古本誠実評価買入 伊東書房」は店頭販売はやめてしまったようですが、店舗は武蔵小金井駅北口小金井街道沿いに今もあります。

「学大特約店 小山書店 小金井駅北口御行通り」は、前述の行幸通り沿いということになりますが、どのへんにあったのか、今のところ手がかりなしです。

「古書籍専門 国分寺書店 国分寺大学通り」は、椎名誠「さらば国分寺書店のオババ」に登場する頃は国分寺駅南口にあったはず(このへん?)ですが、この広告では大学通り(国分寺駅北口の西友前から早稲田実業方向に抜ける道の通称)となっているので、後に南口ができて移転したのでしょうか。南口ができたのは1956年です。

「吟味乃品 破格乃値 お菓子はさゝや 小金井駅北口」。かわいいイラスト付きの広告ですが、手がかりなしです。


最終日、講堂ではクラス・科・サークル参加の合唱祭、そして中庭で歌とフォークダンスによる後夜祭。時代を感じさせます。

展示については次ページと合わせて観察します。

さて、広告です。「精米雑穀 田中米穀店 学大通用門前」とありますが、「学大通用門」とはどこを指すのかがよく分かりません。現在では正門東門グラウンド門北門西門、さらにドラえ門などとも呼ばれるグラウンド北の通用門がありますが、この通用門のことなのか。田中米穀店についても手がかりなしです。

「パイロット万年筆専門店 万年筆病院(修理一切) 大町文具店 国分寺大学通り」は、「ミニコミ国分寺」41号掲載の国分寺北口マップ(1966年住宅地図を下敷きにしたもの)によると、以前居酒屋の「一休」が入っていたビルのあたりにあったようです。

「小金井映劇」は映画館ですが、どこにあったのでしょうか。上映作品は「夫婦善哉」が1955年9月公開、「たけくらべ」が1955年8月公開、「地獄への退却」が1952年制作・1954年4月公開、「力闘空手打ち」が1955年8月公開と分かりました。また、「小金井映画劇場」というキーワードで検索すると、「消えた映画館の記憶」というサイトの1953年の関東地方の映画館のリストに記載がありましたが、残念ながら所在地の記載はありません。

さて、展示の一覧を見てみましょう。

教育研究部、聾教育研究部、児童文化研究部などというサークル名がいかにも教員養成大学らしいです。

平和を守る会の「砂川問題について幻灯展示」は1955~1957年の第一次砂川基地拡張反対闘争に参加した学生らの報告でしょうか。

社会科学研究部の「三鷹事件について展示」は、1949年7月に三鷹電車区で起きた無人電車暴走事件(国鉄労働組合員らが犯人とされ、うち1人が死刑判決を受けた後に獄中で病死)を取り上げたもののようです。

政経研究部の「行政協定研究」は、1952年に締結された旧日米安保条約に基づく日米行政協定、現在で言う日米地位協定取り上げたもののようです。

2年8組(社会科)の「憂うべき教科書について」は、1955年8月に日本民主党(のちに保守合同で自民党になった政党の一つ)が「うれうべき教科書の問題」というパンフレットを発行して教科書の「偏向」を攻撃した問題を取り上げたものでしょう。

いずれも、1950年代の学生運動や社会科学研究サークルの活発な活動の様子を感じさせるものです。

さて、広告です。「文具雑貨 日進堂 小金井学大通り」は、ドンキホーテ裏の文具店ですね。

「和洋酒味噌醤油 大島商店」は1936年創業で、南口のローソンの入っている「大嶋ビル」に現存しています。ウェブサイトに詳しい沿革が出ています

「新しい東京牛乳 国分寺清水牛乳工場」は国分寺駅北口の三菱東京UFJ銀行の西側に1970年代くらいまであった牛乳工場のようです。

「学内くつ修理 石井靴店」は、学内に店舗を構えていたのか、それとも巡回してきていたのか、詳細不明です。1970年代頃は学内に理髪店もありましたので、靴の修理屋さんがあってもおかしくない気がします。

パンフレットの最終ページは学内の地図です。『東京学芸大学五十年史』の105ページに1951年3月末に東京第二師範学校から東京学芸大学に引き継いだ校地の図面が載っていますが、その1951年校地図では東門を入ってすぐのあたりに未使用地があったりするので、このパンフレットの地図はそれよりもあとの時代のように思われます。

『五十年史』の110ページに載っている1956年3月末時点の校地図を見ると、キャンパスが西側に大きく広がって、現在の敷地とほぼ同じ広さになっていますが、このパンフレットの地図は、まだキャンパスが西側に広がる前の時期であるように見えます。教室の番号の振り方を見ても、1956年校地図では教室数が増えて番号を振り直していることが分かります。

このパンフレットの地図にある「10番教室」は、1956年3月には「20番教室」と番号が振り直されていますが、1970年代頃には再び「10番教室」と呼んでいたような記憶があります。

これらの教室は、陸軍技術研究所時代の木造兵舎をそのまま、あるいは間仕切りし直したりして使用していたようです。その後、1~4号館などの鉄筋コンクリートの校舎が整備されたのちは、一部はサークル部室に転用されたり取り壊されたりしましたが、上記の10番教室のようにかなりあとまで教室として使用されていたものもあります。

さて、以上見てきたことから、このパンフレットを作った小金井祭は、だいたい1955年から1957年の間に開催したものなのではないかという推理が成り立ちます。映画館の広告を見ると1955年の可能性が高いように思えるのですが、当時のカレンダーを調べると、平日に始まって最終日の24日が日曜日となるのは1957年で、1955年1956年は曜日的にやや無理があるようでした。1957年説を採ると上記の1956年3月校地図とパンフレットの地図との齟齬があり、すっきりしませんが、このあたりで考察を終わりとします。

なお、学芸大学のキャンパスが小金井に統合されたのは1964年なので、この1950年代には小金井キャンパスでは1~2年生が学んでいました。

もしこのページをご覧になられて、このパンフレットの小金井祭の実際の開催年などをご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひコメント欄でお知らせください。

0 件のコメント: