2018年8月25日土曜日

引揚者住宅をめぐる事件(1)

戦後、満州や朝鮮半島などから内地に引き揚げた人々の住宅問題は相当深刻で、公営の引揚者住宅が整備(軍の兵舎など遊休国有施設の提供を含む)されるまでには、引揚者団体による遊休国有施設の実力占拠などの動きもあったそうです。国会の会議録を見ると、そうした事例に言及・紹介する質問の中で「国分寺」「旧陸軍技術研究所」という言葉が何度か登場します。

第1回国会参議院治安及び地方制度委員会会議録23号 1947年12月07日(6ページ)

「○委員外議員(矢野酉雄君)

 實は一昨々日特別委員會の者は東京を中心といたしました引揚者の一時寮竝びに定著しております各寮をお見舞し、又視察をさせて頂きましたが、實に言葉に絶する窮状でございます。例えば新聞にもよく報道されましたあの國分寺の寮の如き、それは何千坪という建物と、それから何十萬坪という、總計六十萬坪はありますが、土地がそのままになつておりますのに、こんな一つの建物を與えられておるところの引揚者達は、全く窓もございません。」「いよいよ生活に窮して最前お話申しましたところの國分寺の寮の寮長が申しましたのに、ちよつとした注意が私共が足らなかつたために一家五人全部が飢え死をしているのです」

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/001/1336/00112071336023.pdfhttp://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/001/1336/main.html

第1回国会(特別会)質問主意書

「(質問第五十号)昭和二十二年九月三日配付

住宅問題についての質問主意書

右の質問主意書を国会法第七十四条によつて提出する。

  昭和二十二年九月二日

    北條秀一

   参議院議長 松平恒雄殿

 住宅問題についての質問主意書

 敗戦日本再建に最も緊急の必要に迫られながら最も貧弱なる結果しかもたらしていない施策の中に住宅問題がある。このことは既に参議院の自由討議においても取上げられ大方語り尽された通りであるが、我々引揚者は戦災者及び一般困窮者と共に此の問題に関しては以上の認識に止らず抜本的対策の樹立と更に何よりもその一刻も速やかな実施断行を望むものである。以下数点に亘り政府の覚悟と具体的な方策を御うかがいしたい。

一、政府は国有財産(旧軍財産)に就ては財政収入の見地のみでなく民生安定の面からもその活用を考慮される由(国分寺旧陸軍技術研究所に関する特殊物件処理委員会委員長西尾長官の返答―七月三十一日)であるが、遊休官有建物にも民生安定政策から之を活用する意思はないか、且つ右の物件にして既に貸下げられたものでも名儀のみで実際は使用せざるか、ブローカー的に又貸ししているもの、或は一部使用で大部分は無使用に放任されているもの等に対しては貸下げ許可取消し、或はそれを引場者等に開放する為の責任ある調査及び積極的斡旋をなす意思ありや否や。」(以下略)

http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/001/syuh/s001050.htm

第3回国会衆議院本会議録20号 1948年11月25日(185~186ページ)

「○梶川靜雄君

 第五番目に住宅の問題でありますが、引揚者にとりまして、住宅の問題は、食あるいは衣以前の問題であると称されておるのであります。すなわち、現に数縣の例をとつて見ましても、引揚者の約六割は雑居生活であります。懸念措置といたしまして國有財産関係の開放がなされておりますが、しかしながら、これとても住宅化せられていないのでありまして、これが集合住宅化はすみやかになされなければならないと思うのであります。さらにまた國有財産関係の貸與という問題を見ましても、これが貸與を受けまして、そうして権利の上に眠つているものが多数あるのであります。これらに対しましては嚴重なる調査をいたしまて、すみやかに適当なる処置を講ぜられたいと思うのであります。

 あるいはまた庶民住宅の問題でありますが、現在七、八十万人の者が、住宅難で困窮しておるのであります。しかも、これらに対する対策が何らいたされていない証拠には、昨年の十月におきまして、國分寺における事件がありました。さらに今年の年頭におきましても千駄ヶ谷の占拠事件があり、あるいは先日も烏山病院の占拠事件が起つておるのであります。かくのごとく、各地において、まさに不祥事ともいうべき住宅占拠問題が起つておりますのは、すなわち住宅問題が引揚者にとつていかに重大な問題であるかということを如実に物語つておると思うのであります。」

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/003/0512/00311250512020.pdfhttp://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/003/0512/main.html

また、インターネットでは、次のような情報も見つかりました。

日本占領期年表 1947年

「7月19日 東京都引揚者団体連合会、旧陸軍技術研究所の空家500棟を占拠。(今月22日、引揚げ者への開放が決定)
7月22日 旧陸軍技術研究所の空家を引揚げ者へ開放。」
http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/senryou/1947.htm

冨貴島明「『豊かさ』に関する意識の変容(1)」(13ページ)

「7月19日、東京の三多摩厚生会などの引揚者団体が、住宅を要求して、国分寺の旧陸軍技術研究所を実力占拠した。」
http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-KJ00000108438.pdf

2018年8月10日金曜日

小金井の陸軍技術研究所跡地を開拓した人々



「小金井市 昭和の開拓記録 中部農事組合の歴史」という私家本をご紹介します。

この私家本は、現在の小金井市貫井北町・桜町、小平市上水南町にまたがる広大な範囲に戦時中存在した陸軍技術研究所の跡地の一部を終戦直後の食料難の時代に農地として開墾した元陸軍兵器行政本部や元研究所の勤務員等の方々の開拓の歴史について、1993年に小金井市貫井北町に住む石田進氏(現在は故人)らが随想、古い写真、図面などをまとめてアルバムの形で遺したものです。

跡地のかなりの部分は、現在の東京学芸大学や情報通信研究機構、東京サレジオ学園、小金井市立の小中学校、グラウンドなどの学校・研究施設、公共施設の敷地にまとまった形で転用されたほか、戦後10年ほど経ってから、すでに民間の農地となっていた土地を買い受けて東京都住宅公社の小金井本町住宅や国家公務員住宅も建設されました。こうした公共関係の敷地に利用された部分のほかに、現在は一般の民家が立ち並ぶ住宅地となっているエリアもあります。この「中部農事組合の歴史」は、こうした研究所跡地の変遷を知る重要な手がかりを与えてくれる資料です。

小金井市立図書館の地域資料の棚にあった「中央大学附属中学校・高等学校『校史』1909-2012」を手に取って見ていた際に、1963年に小金井市貫井北町3丁目に中大付属高校が開設された時の用地取得の経緯の記述の中で、この私家本の存在を知りました。同校史では、中大付属高校開校と同時に正門前でパン屋さん(のちクリーニング取り次ぎ屋に転業、つい最近の2018年3月に閉店)を開いた加藤商店店主の加藤さんが提供した資料としてこの「中部農事組合の歴史」から、石田進氏による巻頭言を引用しています。

加藤商店にお電話をして、この私家本を見せてもらえないかとお願いしたところ、石田進氏のご長男が同じ町内にお住まいだというので、ご長男に連絡を取り、ご厚意により、写真アルバム1冊にまとめられたこの私家本をお借りしてデジタル画像で複製することができました。以下、個人情報にあたる部分を加工したうえで、ご紹介させていただきます。

巻頭言 中部農事組合の歴史(石田進氏)

 大東亜戦争(第2次世界大戦・太平洋戦争とも言う)の熾烈を極むる頃、各官庁では最小限の食料を自給する必要に迫られ、私たちの所属する陸軍兵器行政本部でも、東京都小金井市緑地公園の一部(約5町歩 15,000坪)を借り受けて、伊藤陸軍大尉を隊長として各部署より体躯強健な要員を選出し農耕隊を編成して、この用地を開拓して甘薯(さつま芋)その他の作物を栽培しました。
 しかし同年の8月戦争終結により軍は閉鎖解散となり、多くの人は郷里へ復員し伊藤大尉も復員されたので、石田が伊藤隊長より、以後の業務を引き継ぎ、残った人達は近くの陸軍技術研究所構内に集合して復員業務に従事しながら収穫を待ちました。その年は天候に恵まれ予期以上の多大な収穫を成し、復員業務を行なっていた多くの職員の食料供給に大いに貢献をしたのでした。
 陸軍の施設であるこの研究所は、米軍の占領接収地として米軍の管理下におかれ、米軍が進駐して警備と管理を行なっていました。陸軍は終戦の処理の一環として占領軍司令部と折衝をして、陸軍技術研究所構内の用地のなかで耕作可能な部分を、陸軍兵器行政本部職員および陸軍技術研究所員より、帰農を希望する者のために農地に使用することを認めさせました。
 元来、当時の陸海軍の接収地のほとんどは、各種の事業や企業にむけられるのが普通であったが、当小金井・小平地区は、軍用地に買収した年月が極めて浅いため、陸軍兵器行政本部の残務整理部長の特別の計らいで、元の地主には農耕適地を返還し、あとの山林原野の部分を開拓して窮乏している食料の増産を計ることになったのです。
 しかし我々帰農者の多くは農業経験には浅く且つ農機具も乏しく、主に不在地主の山林原野の急傾斜地や雨期には水の溜まるような低地を、苦心惨憺して日夜必死になって開拓していきました。一抱えより大きい松の大木や、牛の寝そべったような雑木の株や灌木の大きな根で、一株を掘り起こすのに数日以上の労苦に汗を流して一心に斧や鋸を握り、鍬を振るい夢中で開拓に励む毎日でした。
 まさに言語に絶する艱難辛苦の毎日でありました。当時の入植者は22戸であったが、経験の無い重労働に挑み一日も早く収穫を得んものと努力しましたが、収入もなく乏しい食料を皆で分かち合い励ましあい、米麦の収穫や刈り入れ脱穀には、全員の家族が共同作業で行ない、皆んな一つの家族同様の生活共同体で助け合いながら乗り切って来ました。
 このような非常な困苦を乗り越えた努力は、着実な成果を挙げて、農林省の行なう開拓成功検査には、他の地区に見ない立派なものとして高く評価され模範的な開拓地として、自作農創設特別措置法に基ずき、各人の開拓実績による農地の面積を、東京都知事より売り渡しをされたものです。
 さらに各組合員は渾身の努力を絞り、非力な開拓農地の肥沃化に腐心し肥料になるものは、悪路も厭わず遠くまでリヤカーや荷車を引いて収集に努力して農事に熱心に取り組み収穫を上げてきました。当時は食糧不足のため、農家には国より生産物の強制的な出荷割り当てがありました。乏しい生産量の中から組合員に割り当てられた食料の供出も完納し、またある年は特別供出にも応じて感謝状を授与された事もありました。また農産物品評会にも度々出品して各種の入賞を得たことも度々であり、各員の努力がいかに高揚されていたかを思い起こし、その努力に頭の下がる思いがするのであります。
 しかし、このようにして苦心惨憺して開拓造成された農地も戦後の復興とともに、近郊地域の都市化の波には抗しきれず、元上司や市の斡旋もあって現在の東京都住宅公社・貫井北町の国家公務員住宅および西武分譲地などの住宅用地として開放することになりました。
 私たちの中部農事組合員の開いたこの開拓地は、小金井市の中でも居住性や環境の良さと文化性も高く、ここに住む人々は憩いと潤いのある高級な住宅地として深い愛着を示しておられる人が多く、この様な素晴らしい町の基礎を作った、中部農事組合員の各家族の人々の辛酸労苦の賜物であることを忘れてはならないと思いいます。
 開拓当時の松の大木や雑木の生い茂った山林原野を思うとき、今日のこの様な姿は到底想像も出来ないことでした。当時の陸軍の用地の面積や地域における影響と、開拓者の開拓した農地の所在地など、歴史の一こまですが、皆さんの先祖が果たした苦労の痕跡は、私達の住む町の発展の礎の一つを成した事に誇りをもって、ここに仲間の面影の写真や当時の図面を複製してみました。
 今日ここに住いを持ち永住するに至ったのは、小金井市、農業協同組合、行政本部共栄会の関係者のご支援と協力を得たことを心より感謝すると共に、父母の言い尽くせない努力の賜もので有ります。このような、先祖の歩んだ歴史を後世に語り継いで欲しいものです。石田進

  開拓者たちの顔ぶれ

陸軍技術研究所の跡地を開墾した人々。1960年代頃の写真と思われる。
開拓者名簿(氏名は伏せてある)
武田信男閣下のご遺徳を憶う 石田進

陸軍技術研究所の敷地とその戦後の開墾割り当て

陸軍技術研究所開設にあたり陸軍が買収した範囲
敷地の中の各員の農耕地の分布状況(中央に縦に通るのが現在の新小金井街道。左下は東京学芸大学、その左上は東京サレジオ学園。開墾者の名前はアルファベットに置き換えてあります)
小金井公園緑地の農耕隊 終戦後の収穫記念

開拓者の回想と写真


間渕五郎氏の回想1
間渕五郎氏の回想2
稲穂神社より見た開拓された畑
両団地の中央の通りから見た開拓された畑 左上は第一中学と第二小学校・右手の森は稲穂神社
斜地や凹地が主だった 大雨が降ると水が溜まった(東京サレジオ学園から現在の国家公務員住宅、小金井本町住宅に至る一帯は古い仙川の河岸段丘地形で数メートルほどの高低差が今でも見られます)
やっと畑のようになり収穫の喜びを味あう
山根宏氏の回想1
山根宏氏の回想2
ここで紹介した「小金井市中部農事組合の歴史」の記事・写真はすべて石田進氏のご親族の了解をいただいて個人情報に留意の上で複写・転載したものです。無断転載を固くお断りいたします。