2008年10月26日日曜日

陸軍技術研究所のプール

東京学芸大の東側にあった陸軍技術研究所のプール跡です。もともと上陸用舟艇だか水陸両用戦車のテストのために作られたそうですが、戦後、水泳用プールに改造され、1960年代まで学芸大や同附属小中の水泳の授業に使われていたと聞きます。水泳用プールとして使うために、一つの細長いプールを途中で南北に区切り、スタート台やはしごを取り付けたようです。

水泳用プールとして使われなくなって以降も1990年代初め頃までそのまま放置されていましたが、市内の水道関係の大がかりな工事が行われた際、南側プール部分に縦坑が掘られ、その後埋め戻されたために、南側プール部分が更地になりました。現在は敷地全体が更地になってしまいプールは跡形もありませんが、「プール前」というバス停に名残をとどめています。


なお、終戦直後の米軍撮影の空中写真では、この北側に円形のプールも写っていますが、この円形プール部分の敷地は戦後早い時期に民間に払い下げられ、現在は住宅がたて込んでいます。
東京学芸大学図書館のWebページから見られる同大学の50年史の記述によると、同大学の母体の一つである豊島師範学校の校舎が東京大空襲で消失し、終戦直後に小金井の陸軍研究所跡地に移転して授業を再開しました。その際の校地は現在の同大学の敷地の東側境界線(今の新小金井街道)よりも数百メートル東までありました(以下、東側校地と表現)が、その敷地の一部を又貸しされていた医院が火事を出し、いかなる事情であれ火事があった場合には土地を返還するとのGHQや関東財務局の厳しい土地貸し付け条件があったために、この東側校地を関東財務局に返還することになりました。しかし、このプールだけは教育活動に不可欠であると泣きついて、東側校地のうちプールの部分だけが同大学の敷地として残ったとのことです。プールとして使用しなくなってだいぶあとのことですが、この遊休地に同大学が留学生用宿舎を建設しようとしたところ、周囲への日照問題などで計画が頓挫。このためいまでも有効利用されないまま残っているようです。

※その後2009年頃にこのプール跡がようやく再開発され、ローソンと東京学芸大学コミュニティセンターという地域開放型の施設ができました。

(2001年5月撮影)



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2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

円形のプールは傾斜プールの北側で無く南側でとても水深の深いプールでした傾斜プールではよく模型の舟を浮かべて遊びました、円形プールは通称おman子プールと呼ばれ危険で柵に囲まれていました、戦時中アクアラングの様な機器の開発に用いられてそうです、長い棒の先に砲弾をくくり付け敵上陸部隊に攻撃を掛けると言うとっこ兵器の為だったという事です、学芸大学や通信総合研究所はレーダーの開発や、デジタル計算機の開発が行われ分室に国分寺分室が有りそこもデジタル計算機の開発が行われましたが完成の目処が立たなくなり元々日立の小平氏の土地で19年に日立中央研究所となりました、その時の周辺機器開発能力が買われIBMとの提携を行い、その後日立IBMコンピューターが秦野市に出来沢山の大型コンピューターが輸出されて行きました。むかし、国分寺分室、日立中央研究所に勤めていた人から聞きました。

kokubunji さんのコメント...

Unknownさま、コメントありがとうございます。 円形プールの位置ですが、1947年頃の米軍の空中写真を見ますと、現在「ゆめ工房さくら」というNPOが入っている昔の中華喜楽の建物のあたりなので、やはり傾斜プールの北側にあったと思います。

戦前の技術研究所の中でデジタル計算機の開発が行われていたというのは初めて知りました。日立の国分寺分室が当初技研の敷地の中にあったということでしょうか。

昔の事情に大変お詳しいようですが、これからもまたいろいろ教えていただければ幸いです。お名前がUnknownさんではちょっと寂しいので、次回からは何かニックネームを付けていただきますようお願いいたします。