2020年9月6日日曜日

引揚者住宅をめぐる事件(2)

2年も間が空いてしまいましたが、さらに関連する引用をもう少しだけ続けます。

日本労働年鑑1951年版(第23集)

The Labour Year Book of Japan 1951
第一部 労働者状態
第五編 労働者の生活
第三章 住宅

 「住宅占拠 住宅の獲得は引揚者団体を中核とする遊休建物の占拠という、最も尖鋭化したかたちで現われ、遂に四七年夏議会両院に住宅問題特別小委員会を作らせるに至つた。例えば東京に於ける目立った運動を列挙すれば次の通りである。

四六年八月 江東小学校三校の占拠
〃 一一月 烏山、田無寮の獲得
〃 一二月 毛利邸一部開放
四七年七月 国分寺旧陸軍技研の獲得
四八年一月 三鷹日本無線倉庫の獲得
〃 一〇月 烏山、第二烏山寮の獲得

 この間に住宅獲得同盟が結成されるなど、民主団体、労働組合との共同闘争が活発に行われている。」

日本労働年鑑 第23集/1951年版
発行 1951年1月1日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 時事通信社

引揚者住宅をめぐる事件(1)で引用した国会会議録や資料も合わせてまとめると、次のような事象があったことが分かります。

  • 1947年7月19日に旧陸軍技術研究所で引揚者による実力占拠事件があり、政府は同月22日、空家を引揚者に開放することを決定(同月31日付でなされた「国分寺旧陸軍技術研究所に関する特殊物件処理委員会委員長西尾長官の返答」とはこのことか)。
  • 1947年10月に「國分寺における事件」(その詳細は不明だが、7月の実力占拠事件のあとに起きた一家餓死事件などのことか)が起きた。
  • 1947年12月4日に参院の特別委員会メンバーが国分寺などの引揚者寮を視察し、「一家5人全部が餓死」などの話を寮長から聞いた。

ここで「國分寺」と言われているのはいずれも旧陸軍技術研究所のことを指しているようですが、厳密には旧陸軍技術研究所の敷地は現在の国分寺市域には存在せず、現在の小金井市、小平市域ということになります。敷地が国分寺に隣接しているということと、最寄り駅が国分寺駅であることから、このような表現が使われているものと思います。第5陸軍技術研究所、多摩陸軍技術研究所をルーツとする戦後の電波研究所や現在のNICTでも、この地に置かれた観測サイトをずっと「国分寺」と呼んでいるようです(例えば https://wdc.nict.go.jp/ISDJ/index.html)。

さて、終戦直後の資料の引用はこれくらいにして、今度はこの国分寺近辺の引揚者住宅の件が突然出現する最近の行政資料を紹介します。

第1257回東京都建築審査会議事録

開催日時 平成27(2015)年11月30日
p.3

「〇寺沢書記 それでは、議案第2067号について説明します。

 本件は、一戸建て住宅を新築するにあたり、法第43条第1項ただし書の適用について許可申請がなされたものです。建築物に係る概要について、様式2の表をご覧ください。

 1枚おめくりいただき、様式3をご覧ください。申請地は小平市上水南町で、■■線■■■駅から■に約■■■の場所に位置しております。本件に係る道は、配置図のとおり、東側及び西側で法42条2項道路に接続する、現況幅員3.985m~4.08m、延長47.97mの道です。「道に関する協定」において道部分の関係権利者全員の承諾が得られていないため、個別審査をお願いするものです。

 2枚おめくりいただき、2ページの協定図をご覧ください。黄色に塗られている部分が建築基準法による道路で、赤色に塗られている部分が本件の道です。また、桃色に塗られている部分は、将来的に後退する予定の道の部分となっております。資料右の道の所有者一覧表の通り、関係権利者12名中9名の承諾が得られております。

 3ページの現況写真をご覧ください。申請地は、写真②の自動車が停まっている土地です。本件の道は道路上に整備されており、塀等による敷地との境界も明確であるため、将来にわたって道として維持管理されるものと考えております。

 4ページ、配置図をご覧ください。計画建築物は、外壁及び軒裏を防火構造とし、防火性能を向上させるとともに、外壁から隣地境界までの離れ寸法を50cm以上確保した計画としております。

 以上により、本建築計画は、交通上、安全上、防火上及び衛生上支障がないものと認め、許可したいと考えております。

 説明は以上です。

〇河島議長 それでは、議案第2067号について、ご質問等がありましたらお願いします。

 私から1点お聞きします。4mに満たない部分は、申請地の北側の道の部分の15mm分と、その反対側の、■■■■さん、■■■■さん共有地の同じく15mm分、ここが4mに足りない部分ということでよろしいですか。

〇寺沢書記 はい。

〇河島議長 所有者一覧表を見ると、今の15mmに係る土地も全部、■■■の公衆用道路に含まれる――表の表示はそうなっていると思いますが、それでよろしいですか。

〇寺沢書記 はい。この筆は幅員4mで一筆の土地で、その部分に塀が飛び出しております。

〇河島議長 本来、公衆用道路が4mで決められていることは、何かで確認できますか。

〇寺沢書記 地積測量図を登記所に出しており、それを確認すると4mになっております。公衆用道路に筆を切った際に、そういう形で切ったと聞いております。

〇河島議長 公衆用道路に筆を切ったのは、いつの時期ですか。

〇寺沢書記 手元に資料がないのでわかりません。

〇河島議長 可能性としては、公衆用道路を登記所で、筆を切って公衆用道路としての登記を認める際に、現況測量図を見て、4mであることを確認してということであるならば、公衆用道路として認められているところに塀が出っ張っていると理解できますが、主張の仕方としては、それはもともと私たちの土地です、■■■■の土地ですというような主張になるおそれはないですか。

〇寺沢書記 過去の経緯を調べたところ、私の記憶ですが、もともと都有地であったようです。戦後、引揚者住宅のような形で、全体が都有地で、こういう形で切って、そこに平屋の戸建てが並んでいたという経緯がある土地だそうです。その後、■■さんなり、■■■■さんなりに都有地を売却して、現状の塀や住宅が建てられてきたという経緯がありますので、もともとは大きな土地で、時系列的に言うと、筆を切った時点では塀はなく、■■さんが土地を買われて住宅を建てる際に塀を飛び出してつくってしまったと聞いております。(下線は筆者)

〇そうすると、戦後の引揚者住宅をつくられていたときに、赤く塗られたこの道は当時から道の状態であって、それに接する引揚者住宅を払い下げる形で今日に至っている。

 そうすると、その道も、はっきりした資料が今はないから断定的には言いにくいけれども、売却などを進める際に公衆用道路として位置づけられたもの、ですからそれは当然4mで、そこだけ15mm減らしてという前提にはなっていないと考えられるということですね。

〇寺沢書記 はい、そのとおりです。

〇河島議長 では、そのことで疑義が生じるようなことはないと。

 わかりました。

 ほかにはよろしいですか。

 それでは、次の案件の説明をお願いします。」

ここに、かつて小平市上水南町にあった引揚者住宅の話が登場します。場所的には陸軍技術研究所のあった現在の小金井市貫井北町の西隣に位置する住宅街です。小平市立図書館上水南分室(公民館の一角にある小さな図書室で、レファレンス係なども特にありません)の方に「この上水南町にも、かつて引揚者住宅があったという資料を見たが、どのへんにあったのだろうか」と尋ねたところ、「はっきりしたことは分からないが、この公民館の前の道を東の方に行ったところに引揚者住宅があったと聞いたことがある」とのことです。これは耳寄りな情報です。
そう言われてみれば、確かにその辺に間口が狭く分割された一群の住宅が並んでいます。現にお住まいの方もいらっしゃるので、現状の写真を掲げることは控えますが、国土地理院(地図・空中写真閲覧サービス)で提供されている空中写真の画像データを3枚貼り付けます。



これは米軍が1947年11月14日に撮影した空中写真(R556-No1-7)から一部分を切り出したものです。 写真右端が住宅営団の建設した桜上水東住宅、左端が桜上水西住宅で、東住宅は主に陸軍技術研究所の職員用、西住宅は主に陸軍経理学校の職員用の住宅として建設されたと聞きます。多くの家屋はいわゆる2軒長屋の構造で、のちにその2軒長屋を2軒に分割して払い下げたようです。その間に少しだけ東西に長い建物が4棟写っています。また、よくみると西住宅の北西隅の方にもやや長い建物が3棟写っています。これらも住宅営団が建設した住宅だったのだろうと思いますが、詳しいことはよく分かりません。



これは国土地理院が1961年9月5日に撮影した空中写真(MKT615-C26-28)から一部分を切り出したものです。上記の米軍撮影の写真とほぼ同じエリアが写っていますが、14年間の変化として、旧営団住宅の周囲に都営住宅や戸建て住宅ができたのと、上記の東西に長い建物のあった地点に細かく分割されたような家屋が建ち並んでいることが何とか分かります。



これは国土地理院が1975年1月20日に撮影した空中写真(CKT7415-C26-1)から上記2枚の写真とほぼ同じエリアを切り出したものです。さらに14年経って、2軒長屋はいずれも分割されてしまったようですが、上記の東西に長い建物があった地点は、特に密集度が高くなったように感じられます。

ここからは少し推測が混じりますが、住宅営団が建てた住宅のほとんどは世帯者を前提にした造りで、2軒長屋ではあっても各世帯の区画は壁でしっかり区切られていました。これに対して、上記で言及した東西に長い建物は、例えば単身者寮のような相部屋の造りだったのではないかと思います。なお、これらを建設した住宅営団は、戦時下に軍関係者向け住宅を多数建築したために、戦後GHQから戦時経済政策遂行のための機関と見なされて機関の閉鎖が命じられました。払い下げ前の住宅や建設未着手の土地などは都道府県の住宅局などに移管されたといいます。戦後それらの空き施設が引揚者住宅となり、この写真の建物の場合は6世帯くらいずつ押し込められるような形で入居したのではないかと想像します。その後、遅くとも1961年の空中写真撮影の時点までに他の営団住宅とともに引揚者住宅も居住者に払い下げられることになったために、無理やり6世帯分くらいに土地を分割し、既存の建物は6分割できないために間口の狭い住宅をそれぞれが建築したという経過をたどったのではないか――というのが筆者の推測です。

最後に、営団桜上水(西)住宅のエリアで建築当時の姿をよく残していると思われる一般住宅の写真を紹介します。