2021年1月11日月曜日

オーケーストア国分寺店西側の市道の話

戦後50年間くらいの判例を公開している大判例というサイトがあり、国分寺や小金井界隈で争われた事件を調べていたところ、興味深い判決に出会いました。同サイトは昨年秋にいったん閉じられたあと、利用者や利用目的を限定し、検索フォームも取り外された形で最近再び公開されましたが、以下は以前の同サイトの閲覧結果に基づいて関連資料などと突き合わせて記述したものです。

現在のオーケーストア国分寺店とその西側のマンション。その間を国分寺市道が通っています。

国分寺市本多2丁目のオーケーストアがあるあたりに戦時中「日本航空補機株式会社」という商号の軍需工場がありました。1943年末頃に株式会社岐阜工作機製造(それ以前の株式会社東京歯車製作所が吸収合併になったもの)から土地と工場を買い取ったようです。オイルの浄化装置を製造して中島飛行機などに納めていたといいます(「Taji1325's Blog」2011年2月11日付け投稿へのコメントより)。

この工場の敷地の中央あたりを南北に国分寺町が所有する道(以下では中央道路という)が通り抜けていました。中央道路の敷地は土地と土地との交換で町の所有になったもののようですが、その交換の相手や時期については資料上はっきりしたことは分かりません。1944年5月頃、この中央道路を一般人が通行することは防諜上好ましくないから適当な措置を講ずるようにと軍から指示があり、この指示に基づいて工場は町にこの中央道路の廃道を申請しました。町は、特に緊急を要する事案でもないと判断し、町議会にこの件を付議せずに、従来からの慣行に従い「協議会」を開いて工場側から説明を聞いて協議した結果、この中央道路を廃道にすることはやむを得ないが、町民に不便をかけることになるので、次の条件を付け、この条件が履行されたところで正式に町議会に付議することを決めました。その条件とは次の3点でした。

  1. 工場側は工場用地東側に、この中央道路に代わる道路(以下では東側道路という)を新設するための土地を町に提供すること。
  2. 工場側は工場南側の道路(以下では南側道路という)の幅を拡げるための土地を町に提供すること。
  3. 工場の西側にも道路を新設することとし、そのための土地を工場側で工場所有地西側の土地所有者から買い取って町に提供すること。

ところが、1.と2.については工場側が自らの所有地を町に提供することで実行可能だったものの、3.についてはその土地所有者の承諾を得ることができなかったため、結局この中央道路を廃道とする件は町議会に付議されないままとなりました。

一方、工場側としては、軍からの要請による防諜上の必要があったため、3.の条件を満たさないまま、前記協議会の決定があった後すぐの1944年5月頃に「仮の措置」として中央道路の北側を木製バリケードで閉鎖、中央道路の南側には門柱を建てて工場の入口とし、同年10月頃には東側道路も開設。またその頃南側道路に接する工場敷地を削って南側道路の拡幅も行いました。これらは、土地の所有権の移転などの正式な手続きを行わないまま、事実上提供したという形だったようです。

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス C23-C7-156(1941年6月25日陸軍撮影)をトリミングしています。中央道路はまだ健在で、東側道路もまだ見当たりません。
国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス USA-M737-47(1948年1月18日米軍撮影)をトリミングしています。中央道路南端に門のようなものが見え、東側道路も開通しています。

時は流れ、戦後の1949年、乳幼児の栄養食としてビスケットを配給することを農林省が決め、これに対応するため、工場は「富士食糧工業株式会社」と商号を変えて、この地でビスケットの製造を開始したようです。玄米を基本とした「食養」という考えの普及・実践を進める林仁一郎医師がこの富士食糧工業の経営者となっていました。立川法人会報1958年9月25日付け第50号に掲載された会社訪問記にはそのあたりの経緯が記されています。この記事には、南側道路方向から見た工場の正門の写真も掲載されていますが、中央道路をふさぐように工場の建屋が建っているように見えます。これは、1956年8月頃に工場側が中央道路敷地にまたがる形で工場を増築したことによるもののようです。Wikipediaの「食養会」の項には、次のような記載もあります。「林仁一郎は、医師でありながら食養普及の努力が客引きと誤解されないためにも病院を経営せず、戦時中よりビスケット工場を運営し収入があるため、診察にお金を貰わなかった。後に全国ビスケット協会の幹事でもあり、東京都ビスケット工業組合の理事長でもあった」。

立川法人会報1958年9月25日付け号p.3

さて、町の方では、1948年頃までは中央道路をめぐる工場側の対応について特に問題とはしていなかったようですが、そのうち町議会議員などから返還を求めるべきとの強い要求も出るようになり、1953年7月、町と工場側との間で土地の交換は成立していないという前提で中央道路の敷地を明け渡すように内容証明郵便で工場側に要求しました。また、前記の1956年8月の工場増築の直前の同年7月にも内容証明郵便で中央道路の敷地明け渡しを、また同増築工事への着工直後には同工事の中止を内容証明郵便で工場側に求めました。これに対して工場側は、すでに土地の交換は成立しており、その証拠に町側も東側道路に砂利を敷くなど管理整備したり、南側道路の拡幅部分に町有の地下消火用水槽を設置して管理維持しているではないかと反論し、明け渡しには応じない姿勢を見せました。こうしたやりとりを経る中で、とうとう1959年、富士食糧工業株式会社を相手取って、中央道路敷地上の建物・工作物を撤去して土地を町に明け渡すよう、民事裁判を起こしたのです。

裁判の判決は1962年8月に出ましたが、その結論は、町と工場との間に土地の交換は成立しておらず、工場側が主張した占有開始時から10年での時効取得も成立していないとしましたが、一方、町側にとってこの中央道路敷地を使用する客観的な必要性は乏しく、1957年頃にこの中央道路に近接する形で具体化した都市計画道路(国分寺3・4・12号線1965年建設省告示により決定)についてもその計画の確定や事業実施までには相当の時間がかかることなどの事情を挙げ、町側の請求は「時間的に権利行使の正当な限度を逸脱するもの」だと断じて、これを斥けました(東京地方裁判所昭和34年(ワ)3858号事件判決。ここまで、出典を特記した部分を除く記述は同裁判で裁判所が認定した事実に依拠しています)。中央道路の土地明け渡し請求が権利濫用として斥けられたとはいえ、その土地所有権が正式に町から工場側に移ったというわけではなく、また占有状態を続けていても時効取得は認められませんでしたので、結局、中央道路の敷地については事実上の期間の定めのない使用貸借関係のようなものが認められたという状態だったと考えられます。

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス MKT615-C27-29(1961年9月5日国土地理院撮影) をトリミングしています。中央道路は南端の門付近を除いてもはや通行不能な状態です。

すでにご存じの方もいらっしゃると思いますが、この富士食糧工業株式会社のビスケット工場は、1960年代に火災で焼失してしまいました。その結果、中央道路をまたぐ形で建っていた工場建屋がなくなり、工場敷地は売却されたのか、または会社の所有地のまま貸し出したのか、あるいは会社はそのままで業態を転換したのかはよく分かりませんが、その後、敷地の北寄りに二つのボーリング場がオープンしました。東側にできたのが「国分寺パークレーン」で、西側にできたのが「国分寺ボーリングセンター」です。このタイミングで富士食糧工業による中央道路敷地の使用貸借が終了し、公道として再び開放されたのではないかと考えます。1969年の住宅地図を見ると、工場は国分寺ボーリングセンターの南側に、中央道路敷地を避ける形で再建されています。

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス CKT7415-C27A-1(1975年1月20日国土地理院撮影)をトリミングしています。以前の工場建屋はなくなり、中央道路が復活し、その東側にはオーケーストアと国分寺パークレーン、西側にはマンションなどが建っています。国分寺ボーリングセンターはすでに見当たりません。東側道路はすでに消滅していますが、その北端付近の現在オーケーストアの駐車場になっているあたりにはまだ民家などが残っています。
現在の中央道路の南端です。左のマンションの敷地の角の隅切り部分に植え込みがあるのは、植え込み手前の線が法律に基づく隅切りで、奥のブロック塀の線はここが工場の正門だった頃のセットバックの跡なのかもしれません(よく分かりません)。

このあたりの経緯について国分寺市立本多図書館のレファレンス係の方に資料がないかをお尋ねしたところ、火災は1966年2月10日に発生したもので、中央道路の変遷に関連する資料は見つけることができなかったとのことでしたが、以前地元に住んでいた方からの伝聞情報として、「以前に富士食糧工業(株)だった当時、道路の土地について富士食糧工業(株)と国分寺市で裁判をした結果、国分寺市が敗訴。その後、火災が発生したが同じ場所に工場が再建されることはなく国分寺市でその土地を買い戻した」と聞いたことがあるとの情報をいただきました。

この伝聞情報では「土地を買い戻した」ということになっていますが、そもそも裁判の認定した事実や判決では中央道路敷地と東側道路敷地等の土地の交換は成立しておらず、したがって中央道路敷地の所有権も国分寺市(裁判当時は国分寺町)から富士食糧工業側に渡ってはいませんので、推測ですが、市側が何がしかの和解金を工場側に払い、工場側が中央道路敷地を市に明け渡したということだろうと思います。そして、このとき中央道路とは逆に東側道路の敷地については市側がこれを工場側に明け渡したのだろうと思います。

左側が現在のオーケーストアの敷地、右側が中央道路、上方は元国分寺パークレーン敷地跡で現在は駐車場。何となく官民境界があいまいなままになっているように見えます。

東側道路は、国分寺駅前通りの西側の今もある細い道(駅方向からの入口に電車開通記念碑が建っている道=以下では「記念碑通り」と勝手に名付けます)のさらに西側にありましたが、今はオーケーストア駐車場の舗装の下に隠れてしまい痕跡がなさそうです。東側道路があったころ、この道と記念碑通りの間には数件の家屋などが建ち並んでいましたが、のちにこれらの家屋の敷地をオーケーストアが買収したのか、現在では記念碑通りから西側がオーケーストアの敷地となっています。


オーケーストアの北側から撮影。店と駐車場の間にあるブロック塀は東側道路が存在していた当時の遺稿なのでしょうか。よく分かりません。

南側道路の拡幅部分については工場側に返還されなかったようで、現在まで南側道路と一体で公道の敷地として使用されているように見えます。現地を見てみると、道路と拡幅部分との間に現在も縁石が残っていたりして、旧工場敷地の所有者側が土地所有権を持ったまま敷地をセットバックしているだけなのかもしれません。

なお、南側道路に面して新しく建った建物には、以前国分寺パークレーン内にあった中華料理店「龍栄」が入っているようですが、この店の社名は「富士商事株式会社」で、富士食糧工業株式会社とのつながりを感じます。

南側道路上に残る謎の縁石。この縁石までが戦時中の南側道路拡幅後の工場敷地との境界線で、最近の再開発時に市との協定に基づいてさらにセットバックして車道拡幅と歩道用の敷地を提供したものと思いますが、その提供部分の土地を市に寄付したのであれば、古い縁石を残す意味はないので、所有権はそのままなのかもしれません。

南側道路から北方を撮影。このあたりから奥のNTT国分寺のあたりにかけて国分寺都市計画道路3・4・12号線が通ることが予定されています。

工場側が町に提供を求められた西側道路は実際には一度も存在しませんでしたが、工場と西側臨地の境界は現在の国分寺市商工会館や岡三証券の寮の西側の境界線だろうと思います。

正面左の建物は国分寺市商工会のビルで、右側の建物はNTT社員寮です。この二つの建物の間が昔の工場の西側の土地境界線と思われます。