2020年12月21日月曜日

公開された陸軍技術研究所の構内図・建物配置図と新たな謎

国立公文書館が運営するアジア歴史資料センターのウェブサイトで、陸軍技術研究所についてのかなり詳しい資料が公開されています。比較的最近公開されたのではないかと思いますが、防衛省防衛研究所所蔵の「技術研究所施設に関する綴 昭和20年5月」を見てみると、第1研究所から第9研究所までの構内図などのほか、敗戦直後にこれらの土地を地元農民と研究所勤務者などに農耕地として割り当てた際の協定書なども綴られていることから、戦時中に作成され、戦後も終戦処理用に保管・利用されたものと思われます。各研究所の詳細な構内図・建物配置図はこれまでも防衛研究所に直接行って然るべき手続をすれば閲覧できたのかもしれませんが、一般にはその存在・内容は広く知られておらず(※)、このたびデジタルデータで容易に閲覧・利用できるようになったのはとてもありがたいことです。

※レファレンス協同データベースに国立国会図書館が2010年にレファレンス事例として提供した情報の中に、「小金井市に戦時中あった陸軍技術研究所の敷地図を探しています」との質問に対する「当館所蔵の下記の資料を調査しましたが、お問い合わせの陸軍技術研究所の敷地図が載っている資料は見当たりませんでした」との回答が載っています。

以下、構内図・建物配置図をご紹介します。

「1.第1陸軍技術研究所構内要図」

第1陸軍技術研究所は現在の小金井市桜町から同本町4丁目、市立第一中学校、同第二小学校、上水公園のあるあたりに設けられていました。図の右側の「表門」から入ってすぐの建物が2005年頃まで公園の管理棟として使用されていたことはよく知られています。管理棟とその前にあるグラウンドの地面に段差があり、階段が設けられていますが、この構内図を見ると、その段差の部分に地下車庫が設置されていたことが分かります。あるいは、地下車庫を作るために人為的に盛り土をして段差を設けたのかもしれません。

JACAR(アジア歴史資料センター) Ref.C12122074200、技術研究所施設に関する綴 昭和20年5月(防衛省防衛研究所)

「12.第2陸軍技術研究所建物配置図」

第2陸軍技術研究所がどこにあったのかについては若干情報に混乱がありますが、この件は後ほど書きます。

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122075300、技術研究所施設に関する綴 昭和20年5月(防衛省防衛研究所)

「2.3研構内要図」

第3陸軍技術研究所は現在の小平市上水南町4丁目から小金井市貫井北町4丁目、東京学芸大学のキャンパスのグラウンドや体育館、付属小中学校のある東側半分あたりに設けられていました。この構内要図は一つ一つの建物の用途が詳しく書き込まれていて興味を惹かれます。現在の新小金井街道東側にあったプールは有名で、「上陸用舟艇実験用プール」ではないかと言われていましたが、この図では「渡河試験プール」と記されています。また、新小金井街道の西側には「鉄道車輌庫」なるものがあったことが分かります。何を研究していたのでしょうか。さらに敷地の一番北側の現在住宅地になっているあたりに「火薬庫」が並んでいたことが分かります。火薬庫は誘爆を防ぐためにそれぞれの周囲に盛り土をしてあったようですが、戦後の空中写真を見ると、その土地の形状をそのまま利用して住宅を建てていたように見えます。

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122074300、技術研究所施設に関する綴 昭和20年5月(防衛省防衛研究所)

「5.第5陸軍技術研究所構内建物整理図 昭20年6月16日調製」

第5陸軍技術研究所は現在の小平市上水南町4丁目から小金井市貫井北町4丁目にかけての情報通信研究機構がある一帯に設けられていました。敷地の南西側の自動車庫のある区画は終戦直後に山金醤油株式会社という会社が味噌醤油の工場を建てるということで借り受けて、現在はスーパー・オリンピックの小金井店が建っています。


JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122074600、技術研究所施設に関する綴 昭和20年5月(防衛省防衛研究所)※画像は第3画像目と第4画像目を白黒反転して掲載しています。

「3.建物整理図に関する件 昭和20年6月19日 第7陸軍技術研究所国分寺出張所」

第7陸軍技術研究所は現在の小平市上水南町4丁目のサレジオ学園のあたりにあったと言われていますが、この資料によればそれは「国分寺出張所」ということのようです。米軍が戦後すぐに撮影した空中写真では、すでにこの地に移転していた同学園の敷地の中心に、この出張所の建物整理図と似た形状の建物が写っています。両者を比較すると、整理図では一つの大きな建物として描かれている部分が、実は4つくらいの建物の集合体だったのではないかと思われます。

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122074400、技術研究所施設に関する綴 昭和20年5月(防衛省防衛研究所)

「4.第8陸軍技術研究所配置図」

第8陸軍技術研究所は、現在の小金井市貫井北町4丁目、東京学芸大学キャンパスの研究棟や講義棟が並ぶ西側半分に立地していました。建物の多くは戦後も同大学の研究室や教室、事務室などとして1960年代くらいまで使われていたようです。


JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122074500、技術研究所施設に関する綴 昭和20年5月(防衛省防衛研究所)※画像は第3画像目と第5画像目を白黒反転して掲載しています。

「6.国分寺地区配置図」

陸軍技術研究所の「国分寺地区」全体図です。この図面は大変状態が悪く、ほとんどかすれて読めない部分もありますが、この「国分寺地区」にはこの図面が作成された当時1研、3研、5研、8研と「勤務班」が置かれていたということと、そのそれぞれの建物の配置されていたおよそのエリアが分かります。


JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122074700、技術研究所施設に関する綴 昭和20年5月(防衛省防衛研究所)※掲載した画像は分割された画像を白黒反転して貼り合わせています。

比較のために同じエリアを写した戦後直後の米軍の空中写真を次に掲げます。


国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス USA R556-No1-6 1947年11月14日米軍撮影 ※画像はトリミングして掲載しています。

第2研究所はどこにあったのか

これらの史料を見ていて新たな疑問がわいてきました。

第2研究所は、小金井市本町5丁目に残存する陸軍技術研究所境界石杭の脇に小金井市教育委員会が設置した文化財説明板の記述によれば、現市立本町小学校(東京都小金井市本町5-29-21)付近にあったとされていますが、国土地理院が公開している敗戦直後に米軍が撮影した空中写真、例えばUSA-M737-49(1948年1月18日撮影)の該当地点付近を見ても、今回公開された第2陸軍技術研究所建物配置図にあるような建物が並んでいる様子が見当たりません。また、『小平市史(近現代編)』(2013年刊)には「小金井と小平にまたがる敷地には、技研の五つの研究所がおかれた。第二技術研究所(観測・測量・指揮連絡用兵器)、第五技術研究所(通信機材・整備機材・電波兵器)が小平側の敷地にあり、第一、第三、第八の三研究所は小金井側の敷地に置かれた」と、小金井市の文化財説明板とは異なる見解が示されています。とはいえ、第2研究所もこの国分寺地区の中にあったような書きぶりです。ちなみに第5研究所は現在の小金井市と小平市にまたがるように置かれていましたが、門は小平側にあったようです。

上記の「国分寺地区配置図」という小金井・小平を含む陸軍技術研究所「国分寺地区」(実際には国分寺町域は含まれていない)の全体図の中に建物番号が振られており、1研なら100番台、3研なら300番台というように番号が割り当てられていますが、2研を示す200番台はありません。となると、いったい第2研究所はどこにあったのでしょうか。

公開された資料の中に陸軍省の「官衙所在地一覧表」というものがありました(防衛省防衛研究所所蔵資料の同名のレファレンスコードC15120354700とは別の国立公文書館所蔵の返還文書カテゴリーの方です)。

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03032110000、官衙所在地一覧表(国立公文書館)※画像は第1画像目の表紙と第20画像目をトリミングして貼り合わせて掲載しています。

この一覧表のかなタイプで打たれたページに続く第20画像目の手書きの追記の中に、「第二研 北多摩郡小平町野中新田與衛門組字南(のなかしんでんよえもんぐみあざみなみ=「與」のあとの「右」が1字抜けていると思われる)七九五」という記載がありました。これは大変驚きです。というのは、陸軍技術研究所の「国分寺地区」内にある小平町域は現在の上水南町4丁目、旧町名「野中新田善左衛門組」で、一方「野中新田与右衛門組」は現在の花小金井1~5丁目、その「字南」は同1丁目あたり、西武新宿線の花小金井駅付近に位置しており、二つの地域はかなり離れています。もし、この官衙一覧表の手書きの所在地が間違いでなければ、第2陸軍技術研究所は「国分寺地区」ではない別の場所にあったことになります。

それでは第2研究所はいったいどこにあったのか。今度は「北多摩郡小平町野中新田与右衛門組字南795」という地番から探してみました。1962年の市制施行の直前に町内の8の旧町名(字)が33の新町名に変更されましたが、ほとんどの地域では地番の振り直しはされませんでした。そこで1964年発行の古い商工住宅名鑑(住宅地図)の地番一覧から795という地番を探すと、花小金井駅北口の目と鼻の先にある拓大第一高校(2004年に武蔵村山市に移転し、現在は駅前広場と一体で再開発されスーパーいなげやなどが立地)の敷地がまさにこの地番でした。

株式会社住宅協会『小平市商工住宅名鑑』(1964年)p.49より

国土地理院が公開している敗戦直後の米軍の空中写真(例えば USA-M377-105、1947年7月24日米軍撮影)を見ると、敷地内の建物の配置も、若干異なる部分はあるものの、第2研究所の建物配置図と似ていなくもありません。拓殖大学のウェブサイトの沿革などを見ましたが、当時の拓大予科と第2研究所とのつながりなどを示す情報は見つかりませんでした。

そこで、拓殖大学創立百年史編纂室にこの点を尋ねてみたところ、この点の手がかりとなる資料があることを教えていただきました。ご親切な対応に心から感謝いたします。資料には次のような記述があります。

「昭和19年9月27日
 拓殖大學予科教練実施状況報告
  拓殖大學予科陸軍軍事教官
   陸軍大佐 石黒嘉市
 教練実施報告
第一、学校長ノ教練ニ対スル方針及学校状況中特ニ必要ト認ムル事項
一、学校長ノ教練ニ対スル方針
 昨年度ト変化ナシ
二、学校状況中特ニ必要ト認ムル事項
 1.北多摩郡小平村ニ在リシ予科校舎ハ軍部ノ使用ニ供シ本年四月ヨリ小石川区ノ本校々舎ニ移転ス」(以下略。学校法人拓殖大学『拓殖大学百年史 資料編四』2004年 p.577)

これらの資料から、1944年4月から敗戦時点まで、第2陸軍技術研究所が西武鉄道(現在の西武新宿線)の花小金井駅前にあった拓大予科の敷地・校舎に置かれていたことはまず間違いなさそうです。タイトルに「新たな謎」などと書きましたが、書いているうちに解決してしまったようです。

比較のために第2研究所の建物配置図(再掲)と米軍の空中写真を掲げます。

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122075300、技術研究所施設に関する綴 昭和20年5月(防衛省防衛研究所)

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス USA-M377-105(1947年7月24日米軍撮影) ※画像はトリミングして掲載しています。

2020年9月6日日曜日

引揚者住宅をめぐる事件(2)

2年も間が空いてしまいましたが、さらに関連する引用をもう少しだけ続けます。

日本労働年鑑1951年版(第23集)

The Labour Year Book of Japan 1951
第一部 労働者状態
第五編 労働者の生活
第三章 住宅

 「住宅占拠 住宅の獲得は引揚者団体を中核とする遊休建物の占拠という、最も尖鋭化したかたちで現われ、遂に四七年夏議会両院に住宅問題特別小委員会を作らせるに至つた。例えば東京に於ける目立った運動を列挙すれば次の通りである。

四六年八月 江東小学校三校の占拠
〃 一一月 烏山、田無寮の獲得
〃 一二月 毛利邸一部開放
四七年七月 国分寺旧陸軍技研の獲得
四八年一月 三鷹日本無線倉庫の獲得
〃 一〇月 烏山、第二烏山寮の獲得

 この間に住宅獲得同盟が結成されるなど、民主団体、労働組合との共同闘争が活発に行われている。」

日本労働年鑑 第23集/1951年版
発行 1951年1月1日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 時事通信社

引揚者住宅をめぐる事件(1)で引用した国会会議録や資料も合わせてまとめると、次のような事象があったことが分かります。

  • 1947年7月19日に旧陸軍技術研究所で引揚者による実力占拠事件があり、政府は同月22日、空家を引揚者に開放することを決定(同月31日付でなされた「国分寺旧陸軍技術研究所に関する特殊物件処理委員会委員長西尾長官の返答」とはこのことか)。
  • 1947年10月に「國分寺における事件」(その詳細は不明だが、7月の実力占拠事件のあとに起きた一家餓死事件などのことか)が起きた。
  • 1947年12月4日に参院の特別委員会メンバーが国分寺などの引揚者寮を視察し、「一家5人全部が餓死」などの話を寮長から聞いた。

ここで「國分寺」と言われているのはいずれも旧陸軍技術研究所のことを指しているようですが、厳密には旧陸軍技術研究所の敷地は現在の国分寺市域には存在せず、現在の小金井市、小平市域ということになります。敷地が国分寺に隣接しているということと、最寄り駅が国分寺駅であることから、このような表現が使われているものと思います。第5陸軍技術研究所、多摩陸軍技術研究所をルーツとする戦後の電波研究所や現在のNICTでも、この地に置かれた観測サイトをずっと「国分寺」と呼んでいるようです(例えば https://wdc.nict.go.jp/ISDJ/index.html)。

さて、終戦直後の資料の引用はこれくらいにして、今度はこの国分寺近辺の引揚者住宅の件が突然出現する最近の行政資料を紹介します。

第1257回東京都建築審査会議事録

開催日時 平成27(2015)年11月30日
p.3

「〇寺沢書記 それでは、議案第2067号について説明します。

 本件は、一戸建て住宅を新築するにあたり、法第43条第1項ただし書の適用について許可申請がなされたものです。建築物に係る概要について、様式2の表をご覧ください。

 1枚おめくりいただき、様式3をご覧ください。申請地は小平市上水南町で、■■線■■■駅から■に約■■■の場所に位置しております。本件に係る道は、配置図のとおり、東側及び西側で法42条2項道路に接続する、現況幅員3.985m~4.08m、延長47.97mの道です。「道に関する協定」において道部分の関係権利者全員の承諾が得られていないため、個別審査をお願いするものです。

 2枚おめくりいただき、2ページの協定図をご覧ください。黄色に塗られている部分が建築基準法による道路で、赤色に塗られている部分が本件の道です。また、桃色に塗られている部分は、将来的に後退する予定の道の部分となっております。資料右の道の所有者一覧表の通り、関係権利者12名中9名の承諾が得られております。

 3ページの現況写真をご覧ください。申請地は、写真②の自動車が停まっている土地です。本件の道は道路上に整備されており、塀等による敷地との境界も明確であるため、将来にわたって道として維持管理されるものと考えております。

 4ページ、配置図をご覧ください。計画建築物は、外壁及び軒裏を防火構造とし、防火性能を向上させるとともに、外壁から隣地境界までの離れ寸法を50cm以上確保した計画としております。

 以上により、本建築計画は、交通上、安全上、防火上及び衛生上支障がないものと認め、許可したいと考えております。

 説明は以上です。

〇河島議長 それでは、議案第2067号について、ご質問等がありましたらお願いします。

 私から1点お聞きします。4mに満たない部分は、申請地の北側の道の部分の15mm分と、その反対側の、■■■■さん、■■■■さん共有地の同じく15mm分、ここが4mに足りない部分ということでよろしいですか。

〇寺沢書記 はい。

〇河島議長 所有者一覧表を見ると、今の15mmに係る土地も全部、■■■の公衆用道路に含まれる――表の表示はそうなっていると思いますが、それでよろしいですか。

〇寺沢書記 はい。この筆は幅員4mで一筆の土地で、その部分に塀が飛び出しております。

〇河島議長 本来、公衆用道路が4mで決められていることは、何かで確認できますか。

〇寺沢書記 地積測量図を登記所に出しており、それを確認すると4mになっております。公衆用道路に筆を切った際に、そういう形で切ったと聞いております。

〇河島議長 公衆用道路に筆を切ったのは、いつの時期ですか。

〇寺沢書記 手元に資料がないのでわかりません。

〇河島議長 可能性としては、公衆用道路を登記所で、筆を切って公衆用道路としての登記を認める際に、現況測量図を見て、4mであることを確認してということであるならば、公衆用道路として認められているところに塀が出っ張っていると理解できますが、主張の仕方としては、それはもともと私たちの土地です、■■■■の土地ですというような主張になるおそれはないですか。

〇寺沢書記 過去の経緯を調べたところ、私の記憶ですが、もともと都有地であったようです。戦後、引揚者住宅のような形で、全体が都有地で、こういう形で切って、そこに平屋の戸建てが並んでいたという経緯がある土地だそうです。その後、■■さんなり、■■■■さんなりに都有地を売却して、現状の塀や住宅が建てられてきたという経緯がありますので、もともとは大きな土地で、時系列的に言うと、筆を切った時点では塀はなく、■■さんが土地を買われて住宅を建てる際に塀を飛び出してつくってしまったと聞いております。(下線は筆者)

〇そうすると、戦後の引揚者住宅をつくられていたときに、赤く塗られたこの道は当時から道の状態であって、それに接する引揚者住宅を払い下げる形で今日に至っている。

 そうすると、その道も、はっきりした資料が今はないから断定的には言いにくいけれども、売却などを進める際に公衆用道路として位置づけられたもの、ですからそれは当然4mで、そこだけ15mm減らしてという前提にはなっていないと考えられるということですね。

〇寺沢書記 はい、そのとおりです。

〇河島議長 では、そのことで疑義が生じるようなことはないと。

 わかりました。

 ほかにはよろしいですか。

 それでは、次の案件の説明をお願いします。」

ここに、かつて小平市上水南町にあった引揚者住宅の話が登場します。場所的には陸軍技術研究所のあった現在の小金井市貫井北町の西隣に位置する住宅街です。小平市立図書館上水南分室(公民館の一角にある小さな図書室で、レファレンス係なども特にありません)の方に「この上水南町にも、かつて引揚者住宅があったという資料を見たが、どのへんにあったのだろうか」と尋ねたところ、「はっきりしたことは分からないが、この公民館の前の道を東の方に行ったところに引揚者住宅があったと聞いたことがある」とのことです。これは耳寄りな情報です。
そう言われてみれば、確かにその辺に間口が狭く分割された一群の住宅が並んでいます。現にお住まいの方もいらっしゃるので、現状の写真を掲げることは控えますが、国土地理院(地図・空中写真閲覧サービス)で提供されている空中写真の画像データを3枚貼り付けます。



これは米軍が1947年11月14日に撮影した空中写真(R556-No1-7)から一部分を切り出したものです。 写真右端が住宅営団の建設した桜上水東住宅、左端が桜上水西住宅で、東住宅は主に陸軍技術研究所の職員用、西住宅は主に陸軍経理学校の職員用の住宅として建設されたと聞きます。多くの家屋はいわゆる2軒長屋の構造で、のちにその2軒長屋を2軒に分割して払い下げたようです。その間に少しだけ東西に長い建物が4棟写っています。また、よくみると西住宅の北西隅の方にもやや長い建物が3棟写っています。これらも住宅営団が建設した住宅だったのだろうと思いますが、詳しいことはよく分かりません。



これは国土地理院が1961年9月5日に撮影した空中写真(MKT615-C26-28)から一部分を切り出したものです。上記の米軍撮影の写真とほぼ同じエリアが写っていますが、14年間の変化として、旧営団住宅の周囲に都営住宅や戸建て住宅ができたのと、上記の東西に長い建物のあった地点に細かく分割されたような家屋が建ち並んでいることが何とか分かります。



これは国土地理院が1975年1月20日に撮影した空中写真(CKT7415-C26-1)から上記2枚の写真とほぼ同じエリアを切り出したものです。さらに14年経って、2軒長屋はいずれも分割されてしまったようですが、上記の東西に長い建物があった地点は、特に密集度が高くなったように感じられます。

ここからは少し推測が混じりますが、住宅営団が建てた住宅のほとんどは世帯者を前提にした造りで、2軒長屋ではあっても各世帯の区画は壁でしっかり区切られていました。これに対して、上記で言及した東西に長い建物は、例えば単身者寮のような相部屋の造りだったのではないかと思います。なお、これらを建設した住宅営団は、戦時下に軍関係者向け住宅を多数建築したために、戦後GHQから戦時経済政策遂行のための機関と見なされて機関の閉鎖が命じられました。払い下げ前の住宅や建設未着手の土地などは都道府県の住宅局などに移管されたといいます。戦後それらの空き施設が引揚者住宅となり、この写真の建物の場合は6世帯くらいずつ押し込められるような形で入居したのではないかと想像します。その後、遅くとも1961年の空中写真撮影の時点までに他の営団住宅とともに引揚者住宅も居住者に払い下げられることになったために、無理やり6世帯分くらいに土地を分割し、既存の建物は6分割できないために間口の狭い住宅をそれぞれが建築したという経過をたどったのではないか――というのが筆者の推測です。

最後に、営団桜上水(西)住宅のエリアで建築当時の姿をよく残していると思われる一般住宅の写真を紹介します。