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2021年1月11日月曜日

オーケーストア国分寺店西側の市道の話

戦後50年間くらいの判例を公開している大判例というサイトがあり、国分寺や小金井界隈で争われた事件を調べていたところ、興味深い判決に出会いました。同サイトは昨年秋にいったん閉じられたあと、利用者や利用目的を限定し、検索フォームも取り外された形で最近再び公開されましたが、以下は以前の同サイトの閲覧結果に基づいて関連資料などと突き合わせて記述したものです。

現在のオーケーストア国分寺店とその西側のマンション。その間を国分寺市道が通っています。

国分寺市本多2丁目のオーケーストアがあるあたりに戦時中「日本航空補機株式会社」という商号の軍需工場がありました。1943年末頃に株式会社岐阜工作機製造(それ以前の株式会社東京歯車製作所が吸収合併になったもの)から土地と工場を買い取ったようです。オイルの浄化装置を製造して中島飛行機などに納めていたといいます(「Taji1325's Blog」2011年2月11日付け投稿へのコメントより)。

この工場の敷地の中央あたりを南北に国分寺町が所有する道(以下では中央道路という)が通り抜けていました。中央道路の敷地は土地と土地との交換で町の所有になったもののようですが、その交換の相手や時期については資料上はっきりしたことは分かりません。1944年5月頃、この中央道路を一般人が通行することは防諜上好ましくないから適当な措置を講ずるようにと軍から指示があり、この指示に基づいて工場は町にこの中央道路の廃道を申請しました。町は、特に緊急を要する事案でもないと判断し、町議会にこの件を付議せずに、従来からの慣行に従い「協議会」を開いて工場側から説明を聞いて協議した結果、この中央道路を廃道にすることはやむを得ないが、町民に不便をかけることになるので、次の条件を付け、この条件が履行されたところで正式に町議会に付議することを決めました。その条件とは次の3点でした。

  1. 工場側は工場用地東側に、この中央道路に代わる道路(以下では東側道路という)を新設するための土地を町に提供すること。
  2. 工場側は工場南側の道路(以下では南側道路という)の幅を拡げるための土地を町に提供すること。
  3. 工場の西側にも道路を新設することとし、そのための土地を工場側で工場所有地西側の土地所有者から買い取って町に提供すること。

ところが、1.と2.については工場側が自らの所有地を町に提供することで実行可能だったものの、3.についてはその土地所有者の承諾を得ることができなかったため、結局この中央道路を廃道とする件は町議会に付議されないままとなりました。

一方、工場側としては、軍からの要請による防諜上の必要があったため、3.の条件を満たさないまま、前記協議会の決定があった後すぐの1944年5月頃に「仮の措置」として中央道路の北側を木製バリケードで閉鎖、中央道路の南側には門柱を建てて工場の入口とし、同年10月頃には東側道路も開設。またその頃南側道路に接する工場敷地を削って南側道路の拡幅も行いました。これらは、土地の所有権の移転などの正式な手続きを行わないまま、事実上提供したという形だったようです。

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス C23-C7-156(1941年6月25日陸軍撮影)をトリミングしています。中央道路はまだ健在で、東側道路もまだ見当たりません。
国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス USA-M737-47(1948年1月18日米軍撮影)をトリミングしています。中央道路南端に門のようなものが見え、東側道路も開通しています。

時は流れ、戦後の1949年、乳幼児の栄養食としてビスケットを配給することを農林省が決め、これに対応するため、工場は「富士食糧工業株式会社」と商号を変えて、この地でビスケットの製造を開始したようです。玄米を基本とした「食養」という考えの普及・実践を進める林仁一郎医師がこの富士食糧工業の経営者となっていました。立川法人会報1958年9月25日付け第50号に掲載された会社訪問記にはそのあたりの経緯が記されています。この記事には、南側道路方向から見た工場の正門の写真も掲載されていますが、中央道路をふさぐように工場の建屋が建っているように見えます。これは、1956年8月頃に工場側が中央道路敷地にまたがる形で工場を増築したことによるもののようです。Wikipediaの「食養会」の項には、次のような記載もあります。「林仁一郎は、医師でありながら食養普及の努力が客引きと誤解されないためにも病院を経営せず、戦時中よりビスケット工場を運営し収入があるため、診察にお金を貰わなかった。後に全国ビスケット協会の幹事でもあり、東京都ビスケット工業組合の理事長でもあった」。

立川法人会報1958年9月25日付け号p.3

さて、町の方では、1948年頃までは中央道路をめぐる工場側の対応について特に問題とはしていなかったようですが、そのうち町議会議員などから返還を求めるべきとの強い要求も出るようになり、1953年7月、町と工場側との間で土地の交換は成立していないという前提で中央道路の敷地を明け渡すように内容証明郵便で工場側に要求しました。また、前記の1956年8月の工場増築の直前の同年7月にも内容証明郵便で中央道路の敷地明け渡しを、また同増築工事への着工直後には同工事の中止を内容証明郵便で工場側に求めました。これに対して工場側は、すでに土地の交換は成立しており、その証拠に町側も東側道路に砂利を敷くなど管理整備したり、南側道路の拡幅部分に町有の地下消火用水槽を設置して管理維持しているではないかと反論し、明け渡しには応じない姿勢を見せました。こうしたやりとりを経る中で、とうとう1959年、富士食糧工業株式会社を相手取って、中央道路敷地上の建物・工作物を撤去して土地を町に明け渡すよう、民事裁判を起こしたのです。

裁判の判決は1962年8月に出ましたが、その結論は、町と工場との間に土地の交換は成立しておらず、工場側が主張した占有開始時から10年での時効取得も成立していないとしましたが、一方、町側にとってこの中央道路敷地を使用する客観的な必要性は乏しく、1957年頃にこの中央道路に近接する形で具体化した都市計画道路(国分寺3・4・12号線1965年建設省告示により決定)についてもその計画の確定や事業実施までには相当の時間がかかることなどの事情を挙げ、町側の請求は「時間的に権利行使の正当な限度を逸脱するもの」だと断じて、これを斥けました(東京地方裁判所昭和34年(ワ)3858号事件判決。ここまで、出典を特記した部分を除く記述は同裁判で裁判所が認定した事実に依拠しています)。中央道路の土地明け渡し請求が権利濫用として斥けられたとはいえ、その土地所有権が正式に町から工場側に移ったというわけではなく、また占有状態を続けていても時効取得は認められませんでしたので、結局、中央道路の敷地については事実上の期間の定めのない使用貸借関係のようなものが認められたという状態だったと考えられます。

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス MKT615-C27-29(1961年9月5日国土地理院撮影) をトリミングしています。中央道路は南端の門付近を除いてもはや通行不能な状態です。

すでにご存じの方もいらっしゃると思いますが、この富士食糧工業株式会社のビスケット工場は、1960年代に火災で焼失してしまいました。その結果、中央道路をまたぐ形で建っていた工場建屋がなくなり、工場敷地は売却されたのか、または会社の所有地のまま貸し出したのか、あるいは会社はそのままで業態を転換したのかはよく分かりませんが、その後、敷地の北寄りに二つのボーリング場がオープンしました。東側にできたのが「国分寺パークレーン」で、西側にできたのが「国分寺ボーリングセンター」です。このタイミングで富士食糧工業による中央道路敷地の使用貸借が終了し、公道として再び開放されたのではないかと考えます。1969年の住宅地図を見ると、工場は国分寺ボーリングセンターの南側に、中央道路敷地を避ける形で再建されています。

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス CKT7415-C27A-1(1975年1月20日国土地理院撮影)をトリミングしています。以前の工場建屋はなくなり、中央道路が復活し、その東側にはオーケーストアと国分寺パークレーン、西側にはマンションなどが建っています。国分寺ボーリングセンターはすでに見当たりません。東側道路はすでに消滅していますが、その北端付近の現在オーケーストアの駐車場になっているあたりにはまだ民家などが残っています。
現在の中央道路の南端です。左のマンションの敷地の角の隅切り部分に植え込みがあるのは、植え込み手前の線が法律に基づく隅切りで、奥のブロック塀の線はここが工場の正門だった頃のセットバックの跡なのかもしれません(よく分かりません)。

このあたりの経緯について国分寺市立本多図書館のレファレンス係の方に資料がないかをお尋ねしたところ、火災は1966年2月10日に発生したもので、中央道路の変遷に関連する資料は見つけることができなかったとのことでしたが、以前地元に住んでいた方からの伝聞情報として、「以前に富士食糧工業(株)だった当時、道路の土地について富士食糧工業(株)と国分寺市で裁判をした結果、国分寺市が敗訴。その後、火災が発生したが同じ場所に工場が再建されることはなく国分寺市でその土地を買い戻した」と聞いたことがあるとの情報をいただきました。

この伝聞情報では「土地を買い戻した」ということになっていますが、そもそも裁判の認定した事実や判決では中央道路敷地と東側道路敷地等の土地の交換は成立しておらず、したがって中央道路敷地の所有権も国分寺市(裁判当時は国分寺町)から富士食糧工業側に渡ってはいませんので、推測ですが、市側が何がしかの和解金を工場側に払い、工場側が中央道路敷地を市に明け渡したということだろうと思います。そして、このとき中央道路とは逆に東側道路の敷地については市側がこれを工場側に明け渡したのだろうと思います。

左側が現在のオーケーストアの敷地、右側が中央道路、上方は元国分寺パークレーン敷地跡で現在は駐車場。何となく官民境界があいまいなままになっているように見えます。

東側道路は、国分寺駅前通りの西側の今もある細い道(駅方向からの入口に電車開通記念碑が建っている道=以下では「記念碑通り」と勝手に名付けます)のさらに西側にありましたが、今はオーケーストア駐車場の舗装の下に隠れてしまい痕跡がなさそうです。東側道路があったころ、この道と記念碑通りの間には数件の家屋などが建ち並んでいましたが、のちにこれらの家屋の敷地をオーケーストアが買収したのか、現在では記念碑通りから西側がオーケーストアの敷地となっています。


オーケーストアの北側から撮影。店と駐車場の間にあるブロック塀は東側道路が存在していた当時の遺稿なのでしょうか。よく分かりません。

南側道路の拡幅部分については工場側に返還されなかったようで、現在まで南側道路と一体で公道の敷地として使用されているように見えます。現地を見てみると、道路と拡幅部分との間に現在も縁石が残っていたりして、旧工場敷地の所有者側が土地所有権を持ったまま敷地をセットバックしているだけなのかもしれません。

なお、南側道路に面して新しく建った建物には、以前国分寺パークレーン内にあった中華料理店「龍栄」が入っているようですが、この店の社名は「富士商事株式会社」で、富士食糧工業株式会社とのつながりを感じます。

南側道路上に残る謎の縁石。この縁石までが戦時中の南側道路拡幅後の工場敷地との境界線で、最近の再開発時に市との協定に基づいてさらにセットバックして車道拡幅と歩道用の敷地を提供したものと思いますが、その提供部分の土地を市に寄付したのであれば、古い縁石を残す意味はないので、所有権はそのままなのかもしれません。

南側道路から北方を撮影。このあたりから奥のNTT国分寺のあたりにかけて国分寺都市計画道路3・4・12号線が通ることが予定されています。

工場側が町に提供を求められた西側道路は実際には一度も存在しませんでしたが、工場と西側臨地の境界は現在の国分寺市商工会館や岡三証券の寮の西側の境界線だろうと思います。

正面左の建物は国分寺市商工会のビルで、右側の建物はNTT社員寮です。この二つの建物の間が昔の工場の西側の土地境界線と思われます。

2020年9月6日日曜日

引揚者住宅をめぐる事件(2)

2年も間が空いてしまいましたが、さらに関連する引用をもう少しだけ続けます。

日本労働年鑑1951年版(第23集)

The Labour Year Book of Japan 1951
第一部 労働者状態
第五編 労働者の生活
第三章 住宅

 「住宅占拠 住宅の獲得は引揚者団体を中核とする遊休建物の占拠という、最も尖鋭化したかたちで現われ、遂に四七年夏議会両院に住宅問題特別小委員会を作らせるに至つた。例えば東京に於ける目立った運動を列挙すれば次の通りである。

四六年八月 江東小学校三校の占拠
〃 一一月 烏山、田無寮の獲得
〃 一二月 毛利邸一部開放
四七年七月 国分寺旧陸軍技研の獲得
四八年一月 三鷹日本無線倉庫の獲得
〃 一〇月 烏山、第二烏山寮の獲得

 この間に住宅獲得同盟が結成されるなど、民主団体、労働組合との共同闘争が活発に行われている。」

日本労働年鑑 第23集/1951年版
発行 1951年1月1日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 時事通信社

引揚者住宅をめぐる事件(1)で引用した国会会議録や資料も合わせてまとめると、次のような事象があったことが分かります。

  • 1947年7月19日に旧陸軍技術研究所で引揚者による実力占拠事件があり、政府は同月22日、空家を引揚者に開放することを決定(同月31日付でなされた「国分寺旧陸軍技術研究所に関する特殊物件処理委員会委員長西尾長官の返答」とはこのことか)。
  • 1947年10月に「國分寺における事件」(その詳細は不明だが、7月の実力占拠事件のあとに起きた一家餓死事件などのことか)が起きた。
  • 1947年12月4日に参院の特別委員会メンバーが国分寺などの引揚者寮を視察し、「一家5人全部が餓死」などの話を寮長から聞いた。

ここで「國分寺」と言われているのはいずれも旧陸軍技術研究所のことを指しているようですが、厳密には旧陸軍技術研究所の敷地は現在の国分寺市域には存在せず、現在の小金井市、小平市域ということになります。敷地が国分寺に隣接しているということと、最寄り駅が国分寺駅であることから、このような表現が使われているものと思います。第5陸軍技術研究所、多摩陸軍技術研究所をルーツとする戦後の電波研究所や現在のNICTでも、この地に置かれた観測サイトをずっと「国分寺」と呼んでいるようです(例えば https://wdc.nict.go.jp/ISDJ/index.html)。

さて、終戦直後の資料の引用はこれくらいにして、今度はこの国分寺近辺の引揚者住宅の件が突然出現する最近の行政資料を紹介します。

第1257回東京都建築審査会議事録

開催日時 平成27(2015)年11月30日
p.3

「〇寺沢書記 それでは、議案第2067号について説明します。

 本件は、一戸建て住宅を新築するにあたり、法第43条第1項ただし書の適用について許可申請がなされたものです。建築物に係る概要について、様式2の表をご覧ください。

 1枚おめくりいただき、様式3をご覧ください。申請地は小平市上水南町で、■■線■■■駅から■に約■■■の場所に位置しております。本件に係る道は、配置図のとおり、東側及び西側で法42条2項道路に接続する、現況幅員3.985m~4.08m、延長47.97mの道です。「道に関する協定」において道部分の関係権利者全員の承諾が得られていないため、個別審査をお願いするものです。

 2枚おめくりいただき、2ページの協定図をご覧ください。黄色に塗られている部分が建築基準法による道路で、赤色に塗られている部分が本件の道です。また、桃色に塗られている部分は、将来的に後退する予定の道の部分となっております。資料右の道の所有者一覧表の通り、関係権利者12名中9名の承諾が得られております。

 3ページの現況写真をご覧ください。申請地は、写真②の自動車が停まっている土地です。本件の道は道路上に整備されており、塀等による敷地との境界も明確であるため、将来にわたって道として維持管理されるものと考えております。

 4ページ、配置図をご覧ください。計画建築物は、外壁及び軒裏を防火構造とし、防火性能を向上させるとともに、外壁から隣地境界までの離れ寸法を50cm以上確保した計画としております。

 以上により、本建築計画は、交通上、安全上、防火上及び衛生上支障がないものと認め、許可したいと考えております。

 説明は以上です。

〇河島議長 それでは、議案第2067号について、ご質問等がありましたらお願いします。

 私から1点お聞きします。4mに満たない部分は、申請地の北側の道の部分の15mm分と、その反対側の、■■■■さん、■■■■さん共有地の同じく15mm分、ここが4mに足りない部分ということでよろしいですか。

〇寺沢書記 はい。

〇河島議長 所有者一覧表を見ると、今の15mmに係る土地も全部、■■■の公衆用道路に含まれる――表の表示はそうなっていると思いますが、それでよろしいですか。

〇寺沢書記 はい。この筆は幅員4mで一筆の土地で、その部分に塀が飛び出しております。

〇河島議長 本来、公衆用道路が4mで決められていることは、何かで確認できますか。

〇寺沢書記 地積測量図を登記所に出しており、それを確認すると4mになっております。公衆用道路に筆を切った際に、そういう形で切ったと聞いております。

〇河島議長 公衆用道路に筆を切ったのは、いつの時期ですか。

〇寺沢書記 手元に資料がないのでわかりません。

〇河島議長 可能性としては、公衆用道路を登記所で、筆を切って公衆用道路としての登記を認める際に、現況測量図を見て、4mであることを確認してということであるならば、公衆用道路として認められているところに塀が出っ張っていると理解できますが、主張の仕方としては、それはもともと私たちの土地です、■■■■の土地ですというような主張になるおそれはないですか。

〇寺沢書記 過去の経緯を調べたところ、私の記憶ですが、もともと都有地であったようです。戦後、引揚者住宅のような形で、全体が都有地で、こういう形で切って、そこに平屋の戸建てが並んでいたという経緯がある土地だそうです。その後、■■さんなり、■■■■さんなりに都有地を売却して、現状の塀や住宅が建てられてきたという経緯がありますので、もともとは大きな土地で、時系列的に言うと、筆を切った時点では塀はなく、■■さんが土地を買われて住宅を建てる際に塀を飛び出してつくってしまったと聞いております。(下線は筆者)

〇そうすると、戦後の引揚者住宅をつくられていたときに、赤く塗られたこの道は当時から道の状態であって、それに接する引揚者住宅を払い下げる形で今日に至っている。

 そうすると、その道も、はっきりした資料が今はないから断定的には言いにくいけれども、売却などを進める際に公衆用道路として位置づけられたもの、ですからそれは当然4mで、そこだけ15mm減らしてという前提にはなっていないと考えられるということですね。

〇寺沢書記 はい、そのとおりです。

〇河島議長 では、そのことで疑義が生じるようなことはないと。

 わかりました。

 ほかにはよろしいですか。

 それでは、次の案件の説明をお願いします。」

ここに、かつて小平市上水南町にあった引揚者住宅の話が登場します。場所的には陸軍技術研究所のあった現在の小金井市貫井北町の西隣に位置する住宅街です。小平市立図書館上水南分室(公民館の一角にある小さな図書室で、レファレンス係なども特にありません)の方に「この上水南町にも、かつて引揚者住宅があったという資料を見たが、どのへんにあったのだろうか」と尋ねたところ、「はっきりしたことは分からないが、この公民館の前の道を東の方に行ったところに引揚者住宅があったと聞いたことがある」とのことです。これは耳寄りな情報です。
そう言われてみれば、確かにその辺に間口が狭く分割された一群の住宅が並んでいます。現にお住まいの方もいらっしゃるので、現状の写真を掲げることは控えますが、国土地理院(地図・空中写真閲覧サービス)で提供されている空中写真の画像データを3枚貼り付けます。



これは米軍が1947年11月14日に撮影した空中写真(R556-No1-7)から一部分を切り出したものです。 写真右端が住宅営団の建設した桜上水東住宅、左端が桜上水西住宅で、東住宅は主に陸軍技術研究所の職員用、西住宅は主に陸軍経理学校の職員用の住宅として建設されたと聞きます。多くの家屋はいわゆる2軒長屋の構造で、のちにその2軒長屋を2軒に分割して払い下げたようです。その間に少しだけ東西に長い建物が4棟写っています。また、よくみると西住宅の北西隅の方にもやや長い建物が3棟写っています。これらも住宅営団が建設した住宅だったのだろうと思いますが、詳しいことはよく分かりません。



これは国土地理院が1961年9月5日に撮影した空中写真(MKT615-C26-28)から一部分を切り出したものです。上記の米軍撮影の写真とほぼ同じエリアが写っていますが、14年間の変化として、旧営団住宅の周囲に都営住宅や戸建て住宅ができたのと、上記の東西に長い建物のあった地点に細かく分割されたような家屋が建ち並んでいることが何とか分かります。



これは国土地理院が1975年1月20日に撮影した空中写真(CKT7415-C26-1)から上記2枚の写真とほぼ同じエリアを切り出したものです。さらに14年経って、2軒長屋はいずれも分割されてしまったようですが、上記の東西に長い建物があった地点は、特に密集度が高くなったように感じられます。

ここからは少し推測が混じりますが、住宅営団が建てた住宅のほとんどは世帯者を前提にした造りで、2軒長屋ではあっても各世帯の区画は壁でしっかり区切られていました。これに対して、上記で言及した東西に長い建物は、例えば単身者寮のような相部屋の造りだったのではないかと思います。なお、これらを建設した住宅営団は、戦時下に軍関係者向け住宅を多数建築したために、戦後GHQから戦時経済政策遂行のための機関と見なされて機関の閉鎖が命じられました。払い下げ前の住宅や建設未着手の土地などは都道府県の住宅局などに移管されたといいます。戦後それらの空き施設が引揚者住宅となり、この写真の建物の場合は6世帯くらいずつ押し込められるような形で入居したのではないかと想像します。その後、遅くとも1961年の空中写真撮影の時点までに他の営団住宅とともに引揚者住宅も居住者に払い下げられることになったために、無理やり6世帯分くらいに土地を分割し、既存の建物は6分割できないために間口の狭い住宅をそれぞれが建築したという経過をたどったのではないか――というのが筆者の推測です。

最後に、営団桜上水(西)住宅のエリアで建築当時の姿をよく残していると思われる一般住宅の写真を紹介します。




2018年8月25日土曜日

引揚者住宅をめぐる事件(1)

戦後、満州や朝鮮半島などから内地に引き揚げた人々の住宅問題は相当深刻で、公営の引揚者住宅が整備(軍の兵舎など遊休国有施設の提供を含む)されるまでには、引揚者団体による遊休国有施設の実力占拠などの動きもあったそうです。国会の会議録を見ると、そうした事例に言及・紹介する質問の中で「国分寺」「旧陸軍技術研究所」という言葉が何度か登場します。

第1回国会参議院治安及び地方制度委員会会議録23号 1947年12月07日(6ページ)

「○委員外議員(矢野酉雄君)

 實は一昨々日特別委員會の者は東京を中心といたしました引揚者の一時寮竝びに定著しております各寮をお見舞し、又視察をさせて頂きましたが、實に言葉に絶する窮状でございます。例えば新聞にもよく報道されましたあの國分寺の寮の如き、それは何千坪という建物と、それから何十萬坪という、總計六十萬坪はありますが、土地がそのままになつておりますのに、こんな一つの建物を與えられておるところの引揚者達は、全く窓もございません。」「いよいよ生活に窮して最前お話申しましたところの國分寺の寮の寮長が申しましたのに、ちよつとした注意が私共が足らなかつたために一家五人全部が飢え死をしているのです」

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/001/1336/00112071336023.pdfhttp://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/001/1336/main.html

第1回国会(特別会)質問主意書

「(質問第五十号)昭和二十二年九月三日配付

住宅問題についての質問主意書

右の質問主意書を国会法第七十四条によつて提出する。

  昭和二十二年九月二日

    北條秀一

   参議院議長 松平恒雄殿

 住宅問題についての質問主意書

 敗戦日本再建に最も緊急の必要に迫られながら最も貧弱なる結果しかもたらしていない施策の中に住宅問題がある。このことは既に参議院の自由討議においても取上げられ大方語り尽された通りであるが、我々引揚者は戦災者及び一般困窮者と共に此の問題に関しては以上の認識に止らず抜本的対策の樹立と更に何よりもその一刻も速やかな実施断行を望むものである。以下数点に亘り政府の覚悟と具体的な方策を御うかがいしたい。

一、政府は国有財産(旧軍財産)に就ては財政収入の見地のみでなく民生安定の面からもその活用を考慮される由(国分寺旧陸軍技術研究所に関する特殊物件処理委員会委員長西尾長官の返答―七月三十一日)であるが、遊休官有建物にも民生安定政策から之を活用する意思はないか、且つ右の物件にして既に貸下げられたものでも名儀のみで実際は使用せざるか、ブローカー的に又貸ししているもの、或は一部使用で大部分は無使用に放任されているもの等に対しては貸下げ許可取消し、或はそれを引場者等に開放する為の責任ある調査及び積極的斡旋をなす意思ありや否や。」(以下略)

http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/001/syuh/s001050.htm

第3回国会衆議院本会議録20号 1948年11月25日(185~186ページ)

「○梶川靜雄君

 第五番目に住宅の問題でありますが、引揚者にとりまして、住宅の問題は、食あるいは衣以前の問題であると称されておるのであります。すなわち、現に数縣の例をとつて見ましても、引揚者の約六割は雑居生活であります。懸念措置といたしまして國有財産関係の開放がなされておりますが、しかしながら、これとても住宅化せられていないのでありまして、これが集合住宅化はすみやかになされなければならないと思うのであります。さらにまた國有財産関係の貸與という問題を見ましても、これが貸與を受けまして、そうして権利の上に眠つているものが多数あるのであります。これらに対しましては嚴重なる調査をいたしまて、すみやかに適当なる処置を講ぜられたいと思うのであります。

 あるいはまた庶民住宅の問題でありますが、現在七、八十万人の者が、住宅難で困窮しておるのであります。しかも、これらに対する対策が何らいたされていない証拠には、昨年の十月におきまして、國分寺における事件がありました。さらに今年の年頭におきましても千駄ヶ谷の占拠事件があり、あるいは先日も烏山病院の占拠事件が起つておるのであります。かくのごとく、各地において、まさに不祥事ともいうべき住宅占拠問題が起つておりますのは、すなわち住宅問題が引揚者にとつていかに重大な問題であるかということを如実に物語つておると思うのであります。」

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/003/0512/00311250512020.pdfhttp://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/003/0512/main.html

また、インターネットでは、次のような情報も見つかりました。

日本占領期年表 1947年

「7月19日 東京都引揚者団体連合会、旧陸軍技術研究所の空家500棟を占拠。(今月22日、引揚げ者への開放が決定)
7月22日 旧陸軍技術研究所の空家を引揚げ者へ開放。」
http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/senryou/1947.htm

冨貴島明「『豊かさ』に関する意識の変容(1)」(13ページ)

「7月19日、東京の三多摩厚生会などの引揚者団体が、住宅を要求して、国分寺の旧陸軍技術研究所を実力占拠した。」
http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-KJ00000108438.pdf