2021年1月11日月曜日

オーケーストア国分寺店西側の市道の話

戦後50年間くらいの判例を公開している大判例というサイトがあり、国分寺や小金井界隈で争われた事件を調べていたところ、興味深い判決に出会いました。同サイトは昨年秋にいったん閉じられたあと、利用者や利用目的を限定し、検索フォームも取り外された形で最近再び公開されましたが、以下は以前の同サイトの閲覧結果に基づいて関連資料などと突き合わせて記述したものです。

現在のオーケーストア国分寺店とその西側のマンション。その間を国分寺市道が通っています。

国分寺市本多2丁目のオーケーストアがあるあたりに戦時中「日本航空補機株式会社」という商号の軍需工場がありました。1943年末頃に株式会社岐阜工作機製造(それ以前の株式会社東京歯車製作所が吸収合併になったもの)から土地と工場を買い取ったようです。オイルの浄化装置を製造して中島飛行機などに納めていたといいます(「Taji1325's Blog」2011年2月11日付け投稿へのコメントより)。

この工場の敷地の中央あたりを南北に国分寺町が所有する道(以下では中央道路という)が通り抜けていました。中央道路の敷地は土地と土地との交換で町の所有になったもののようですが、その交換の相手や時期については資料上はっきりしたことは分かりません。1944年5月頃、この中央道路を一般人が通行することは防諜上好ましくないから適当な措置を講ずるようにと軍から指示があり、この指示に基づいて工場は町にこの中央道路の廃道を申請しました。町は、特に緊急を要する事案でもないと判断し、町議会にこの件を付議せずに、従来からの慣行に従い「協議会」を開いて工場側から説明を聞いて協議した結果、この中央道路を廃道にすることはやむを得ないが、町民に不便をかけることになるので、次の条件を付け、この条件が履行されたところで正式に町議会に付議することを決めました。その条件とは次の3点でした。

  1. 工場側は工場用地東側に、この中央道路に代わる道路(以下では東側道路という)を新設するための土地を町に提供すること。
  2. 工場側は工場南側の道路(以下では南側道路という)の幅を拡げるための土地を町に提供すること。
  3. 工場の西側にも道路を新設することとし、そのための土地を工場側で工場所有地西側の土地所有者から買い取って町に提供すること。

ところが、1.と2.については工場側が自らの所有地を町に提供することで実行可能だったものの、3.についてはその土地所有者の承諾を得ることができなかったため、結局この中央道路を廃道とする件は町議会に付議されないままとなりました。

一方、工場側としては、軍からの要請による防諜上の必要があったため、3.の条件を満たさないまま、前記協議会の決定があった後すぐの1944年5月頃に「仮の措置」として中央道路の北側を木製バリケードで閉鎖、中央道路の南側には門柱を建てて工場の入口とし、同年10月頃には東側道路も開設。またその頃南側道路に接する工場敷地を削って南側道路の拡幅も行いました。これらは、土地の所有権の移転などの正式な手続きを行わないまま、事実上提供したという形だったようです。

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス C23-C7-156(1941年6月25日陸軍撮影)をトリミングしています。中央道路はまだ健在で、東側道路もまだ見当たりません。
国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス USA-M737-47(1948年1月18日米軍撮影)をトリミングしています。中央道路南端に門のようなものが見え、東側道路も開通しています。

時は流れ、戦後の1949年、乳幼児の栄養食としてビスケットを配給することを農林省が決め、これに対応するため、工場は「富士食糧工業株式会社」と商号を変えて、この地でビスケットの製造を開始したようです。玄米を基本とした「食養」という考えの普及・実践を進める林仁一郎医師がこの富士食糧工業の経営者となっていました。立川法人会報1958年9月25日付け第50号に掲載された会社訪問記にはそのあたりの経緯が記されています。この記事には、南側道路方向から見た工場の正門の写真も掲載されていますが、中央道路をふさぐように工場の建屋が建っているように見えます。これは、1956年8月頃に工場側が中央道路敷地にまたがる形で工場を増築したことによるもののようです。Wikipediaの「食養会」の項には、次のような記載もあります。「林仁一郎は、医師でありながら食養普及の努力が客引きと誤解されないためにも病院を経営せず、戦時中よりビスケット工場を運営し収入があるため、診察にお金を貰わなかった。後に全国ビスケット協会の幹事でもあり、東京都ビスケット工業組合の理事長でもあった」。

立川法人会報1958年9月25日付け号p.3

さて、町の方では、1948年頃までは中央道路をめぐる工場側の対応について特に問題とはしていなかったようですが、そのうち町議会議員などから返還を求めるべきとの強い要求も出るようになり、1953年7月、町と工場側との間で土地の交換は成立していないという前提で中央道路の敷地を明け渡すように内容証明郵便で工場側に要求しました。また、前記の1956年8月の工場増築の直前の同年7月にも内容証明郵便で中央道路の敷地明け渡しを、また同増築工事への着工直後には同工事の中止を内容証明郵便で工場側に求めました。これに対して工場側は、すでに土地の交換は成立しており、その証拠に町側も東側道路に砂利を敷くなど管理整備したり、南側道路の拡幅部分に町有の地下消火用水槽を設置して管理維持しているではないかと反論し、明け渡しには応じない姿勢を見せました。こうしたやりとりを経る中で、とうとう1959年、富士食糧工業株式会社を相手取って、中央道路敷地上の建物・工作物を撤去して土地を町に明け渡すよう、民事裁判を起こしたのです。

裁判の判決は1962年8月に出ましたが、その結論は、町と工場との間に土地の交換は成立しておらず、工場側が主張した占有開始時から10年での時効取得も成立していないとしましたが、一方、町側にとってこの中央道路敷地を使用する客観的な必要性は乏しく、1957年頃にこの中央道路に近接する形で具体化した都市計画道路(国分寺3・4・12号線1965年建設省告示により決定)についてもその計画の確定や事業実施までには相当の時間がかかることなどの事情を挙げ、町側の請求は「時間的に権利行使の正当な限度を逸脱するもの」だと断じて、これを斥けました(東京地方裁判所昭和34年(ワ)3858号事件判決。ここまで、出典を特記した部分を除く記述は同裁判で裁判所が認定した事実に依拠しています)。中央道路の土地明け渡し請求が権利濫用として斥けられたとはいえ、その土地所有権が正式に町から工場側に移ったというわけではなく、また占有状態を続けていても時効取得は認められませんでしたので、結局、中央道路の敷地については事実上の期間の定めのない使用貸借関係のようなものが認められたという状態だったと考えられます。

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス MKT615-C27-29(1961年9月5日国土地理院撮影) をトリミングしています。中央道路は南端の門付近を除いてもはや通行不能な状態です。

すでにご存じの方もいらっしゃると思いますが、この富士食糧工業株式会社のビスケット工場は、1960年代に火災で焼失してしまいました。その結果、中央道路をまたぐ形で建っていた工場建屋がなくなり、工場敷地は売却されたのか、または会社の所有地のまま貸し出したのか、あるいは会社はそのままで業態を転換したのかはよく分かりませんが、その後、敷地の北寄りに二つのボーリング場がオープンしました。東側にできたのが「国分寺パークレーン」で、西側にできたのが「国分寺ボーリングセンター」です。このタイミングで富士食糧工業による中央道路敷地の使用貸借が終了し、公道として再び開放されたのではないかと考えます。1969年の住宅地図を見ると、工場は国分寺ボーリングセンターの南側に、中央道路敷地を避ける形で再建されています。

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス CKT7415-C27A-1(1975年1月20日国土地理院撮影)をトリミングしています。以前の工場建屋はなくなり、中央道路が復活し、その東側にはオーケーストアと国分寺パークレーン、西側にはマンションなどが建っています。国分寺ボーリングセンターはすでに見当たりません。東側道路はすでに消滅していますが、その北端付近の現在オーケーストアの駐車場になっているあたりにはまだ民家などが残っています。
現在の中央道路の南端です。左のマンションの敷地の角の隅切り部分に植え込みがあるのは、植え込み手前の線が法律に基づく隅切りで、奥のブロック塀の線はここが工場の正門だった頃のセットバックの跡なのかもしれません(よく分かりません)。

このあたりの経緯について国分寺市立本多図書館のレファレンス係の方に資料がないかをお尋ねしたところ、火災は1966年2月10日に発生したもので、中央道路の変遷に関連する資料は見つけることができなかったとのことでしたが、以前地元に住んでいた方からの伝聞情報として、「以前に富士食糧工業(株)だった当時、道路の土地について富士食糧工業(株)と国分寺市で裁判をした結果、国分寺市が敗訴。その後、火災が発生したが同じ場所に工場が再建されることはなく国分寺市でその土地を買い戻した」と聞いたことがあるとの情報をいただきました。

この伝聞情報では「土地を買い戻した」ということになっていますが、そもそも裁判の認定した事実や判決では中央道路敷地と東側道路敷地等の土地の交換は成立しておらず、したがって中央道路敷地の所有権も国分寺市(裁判当時は国分寺町)から富士食糧工業側に渡ってはいませんので、推測ですが、市側が何がしかの和解金を工場側に払い、工場側が中央道路敷地を市に明け渡したということだろうと思います。そして、このとき中央道路とは逆に東側道路の敷地については市側がこれを工場側に明け渡したのだろうと思います。

左側が現在のオーケーストアの敷地、右側が中央道路、上方は元国分寺パークレーン敷地跡で現在は駐車場。何となく官民境界があいまいなままになっているように見えます。

東側道路は、国分寺駅前通りの西側の今もある細い道(駅方向からの入口に電車開通記念碑が建っている道=以下では「記念碑通り」と勝手に名付けます)のさらに西側にありましたが、今はオーケーストア駐車場の舗装の下に隠れてしまい痕跡がなさそうです。東側道路があったころ、この道と記念碑通りの間には数件の家屋などが建ち並んでいましたが、のちにこれらの家屋の敷地をオーケーストアが買収したのか、現在では記念碑通りから西側がオーケーストアの敷地となっています。


オーケーストアの北側から撮影。店と駐車場の間にあるブロック塀は東側道路が存在していた当時の遺稿なのでしょうか。よく分かりません。

南側道路の拡幅部分については工場側に返還されなかったようで、現在まで南側道路と一体で公道の敷地として使用されているように見えます。現地を見てみると、道路と拡幅部分との間に現在も縁石が残っていたりして、旧工場敷地の所有者側が土地所有権を持ったまま敷地をセットバックしているだけなのかもしれません。

なお、南側道路に面して新しく建った建物には、以前国分寺パークレーン内にあった中華料理店「龍栄」が入っているようですが、この店の社名は「富士商事株式会社」で、富士食糧工業株式会社とのつながりを感じます。

南側道路上に残る謎の縁石。この縁石までが戦時中の南側道路拡幅後の工場敷地との境界線で、最近の再開発時に市との協定に基づいてさらにセットバックして車道拡幅と歩道用の敷地を提供したものと思いますが、その提供部分の土地を市に寄付したのであれば、古い縁石を残す意味はないので、所有権はそのままなのかもしれません。

南側道路から北方を撮影。このあたりから奥のNTT国分寺のあたりにかけて国分寺都市計画道路3・4・12号線が通ることが予定されています。

工場側が町に提供を求められた西側道路は実際には一度も存在しませんでしたが、工場と西側臨地の境界は現在の国分寺市商工会館や岡三証券の寮の西側の境界線だろうと思います。

正面左の建物は国分寺市商工会のビルで、右側の建物はNTT社員寮です。この二つの建物の間が昔の工場の西側の土地境界線と思われます。

2020年12月21日月曜日

公開された陸軍技術研究所の構内図・建物配置図と新たな謎

国立公文書館が運営するアジア歴史資料センターのウェブサイトで、陸軍技術研究所についてのかなり詳しい資料が公開されています。比較的最近公開されたのではないかと思いますが、防衛省防衛研究所所蔵の「技術研究所施設に関する綴 昭和20年5月」を見てみると、第1研究所から第9研究所までの構内図などのほか、敗戦直後にこれらの土地を地元農民と研究所勤務者などに農耕地として割り当てた際の協定書なども綴られていることから、戦時中に作成され、戦後も終戦処理用に保管・利用されたものと思われます。各研究所の詳細な構内図・建物配置図はこれまでも防衛研究所に直接行って然るべき手続をすれば閲覧できたのかもしれませんが、一般にはその存在・内容は広く知られておらず(※)、このたびデジタルデータで容易に閲覧・利用できるようになったのはとてもありがたいことです。

※レファレンス協同データベースに国立国会図書館が2010年にレファレンス事例として提供した情報の中に、「小金井市に戦時中あった陸軍技術研究所の敷地図を探しています」との質問に対する「当館所蔵の下記の資料を調査しましたが、お問い合わせの陸軍技術研究所の敷地図が載っている資料は見当たりませんでした」との回答が載っています。

以下、構内図・建物配置図をご紹介します。

「1.第1陸軍技術研究所構内要図」

第1陸軍技術研究所は現在の小金井市桜町から同本町4丁目、市立第一中学校、同第二小学校、上水公園のあるあたりに設けられていました。図の右側の「表門」から入ってすぐの建物が2005年頃まで公園の管理棟として使用されていたことはよく知られています。管理棟とその前にあるグラウンドの地面に段差があり、階段が設けられていますが、この構内図を見ると、その段差の部分に地下車庫が設置されていたことが分かります。あるいは、地下車庫を作るために人為的に盛り土をして段差を設けたのかもしれません。

JACAR(アジア歴史資料センター) Ref.C12122074200、技術研究所施設に関する綴 昭和20年5月(防衛省防衛研究所)

「12.第2陸軍技術研究所建物配置図」

第2陸軍技術研究所がどこにあったのかについては若干情報に混乱がありますが、この件は後ほど書きます。

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122075300、技術研究所施設に関する綴 昭和20年5月(防衛省防衛研究所)

「2.3研構内要図」

第3陸軍技術研究所は現在の小平市上水南町4丁目から小金井市貫井北町4丁目、東京学芸大学のキャンパスのグラウンドや体育館、付属小中学校のある東側半分あたりに設けられていました。この構内要図は一つ一つの建物の用途が詳しく書き込まれていて興味を惹かれます。現在の新小金井街道東側にあったプールは有名で、「上陸用舟艇実験用プール」ではないかと言われていましたが、この図では「渡河試験プール」と記されています。また、新小金井街道の西側には「鉄道車輌庫」なるものがあったことが分かります。何を研究していたのでしょうか。さらに敷地の一番北側の現在住宅地になっているあたりに「火薬庫」が並んでいたことが分かります。火薬庫は誘爆を防ぐためにそれぞれの周囲に盛り土をしてあったようですが、戦後の空中写真を見ると、その土地の形状をそのまま利用して住宅を建てていたように見えます。

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122074300、技術研究所施設に関する綴 昭和20年5月(防衛省防衛研究所)

「5.第5陸軍技術研究所構内建物整理図 昭20年6月16日調製」

第5陸軍技術研究所は現在の小平市上水南町4丁目から小金井市貫井北町4丁目にかけての情報通信研究機構がある一帯に設けられていました。敷地の南西側の自動車庫のある区画は終戦直後に山金醤油株式会社という会社が味噌醤油の工場を建てるということで借り受けて、現在はスーパー・オリンピックの小金井店が建っています。


JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122074600、技術研究所施設に関する綴 昭和20年5月(防衛省防衛研究所)※画像は第3画像目と第4画像目を白黒反転して掲載しています。

「3.建物整理図に関する件 昭和20年6月19日 第7陸軍技術研究所国分寺出張所」

第7陸軍技術研究所は現在の小平市上水南町4丁目のサレジオ学園のあたりにあったと言われていますが、この資料によればそれは「国分寺出張所」ということのようです。米軍が戦後すぐに撮影した空中写真では、すでにこの地に移転していた同学園の敷地の中心に、この出張所の建物整理図と似た形状の建物が写っています。両者を比較すると、整理図では一つの大きな建物として描かれている部分が、実は4つくらいの建物の集合体だったのではないかと思われます。

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122074400、技術研究所施設に関する綴 昭和20年5月(防衛省防衛研究所)

「4.第8陸軍技術研究所配置図」

第8陸軍技術研究所は、現在の小金井市貫井北町4丁目、東京学芸大学キャンパスの研究棟や講義棟が並ぶ西側半分に立地していました。建物の多くは戦後も同大学の研究室や教室、事務室などとして1960年代くらいまで使われていたようです。


JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122074500、技術研究所施設に関する綴 昭和20年5月(防衛省防衛研究所)※画像は第3画像目と第5画像目を白黒反転して掲載しています。

「6.国分寺地区配置図」

陸軍技術研究所の「国分寺地区」全体図です。この図面は大変状態が悪く、ほとんどかすれて読めない部分もありますが、この「国分寺地区」にはこの図面が作成された当時1研、3研、5研、8研と「勤務班」が置かれていたということと、そのそれぞれの建物の配置されていたおよそのエリアが分かります。


JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122074700、技術研究所施設に関する綴 昭和20年5月(防衛省防衛研究所)※掲載した画像は分割された画像を白黒反転して貼り合わせています。

比較のために同じエリアを写した戦後直後の米軍の空中写真を次に掲げます。


国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス USA R556-No1-6 1947年11月14日米軍撮影 ※画像はトリミングして掲載しています。

第2研究所はどこにあったのか

これらの史料を見ていて新たな疑問がわいてきました。

第2研究所は、小金井市本町5丁目に残存する陸軍技術研究所境界石杭の脇に小金井市教育委員会が設置した文化財説明板の記述によれば、現市立本町小学校(東京都小金井市本町5-29-21)付近にあったとされていますが、国土地理院が公開している敗戦直後に米軍が撮影した空中写真、例えばUSA-M737-49(1948年1月18日撮影)の該当地点付近を見ても、今回公開された第2陸軍技術研究所建物配置図にあるような建物が並んでいる様子が見当たりません。また、『小平市史(近現代編)』(2013年刊)には「小金井と小平にまたがる敷地には、技研の五つの研究所がおかれた。第二技術研究所(観測・測量・指揮連絡用兵器)、第五技術研究所(通信機材・整備機材・電波兵器)が小平側の敷地にあり、第一、第三、第八の三研究所は小金井側の敷地に置かれた」と、小金井市の文化財説明板とは異なる見解が示されています。とはいえ、第2研究所もこの国分寺地区の中にあったような書きぶりです。ちなみに第5研究所は現在の小金井市と小平市にまたがるように置かれていましたが、門は小平側にあったようです。

上記の「国分寺地区配置図」という小金井・小平を含む陸軍技術研究所「国分寺地区」(実際には国分寺町域は含まれていない)の全体図の中に建物番号が振られており、1研なら100番台、3研なら300番台というように番号が割り当てられていますが、2研を示す200番台はありません。となると、いったい第2研究所はどこにあったのでしょうか。

公開された資料の中に陸軍省の「官衙所在地一覧表」というものがありました(防衛省防衛研究所所蔵資料の同名のレファレンスコードC15120354700とは別の国立公文書館所蔵の返還文書カテゴリーの方です)。

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03032110000、官衙所在地一覧表(国立公文書館)※画像は第1画像目の表紙と第20画像目をトリミングして貼り合わせて掲載しています。

この一覧表のかなタイプで打たれたページに続く第20画像目の手書きの追記の中に、「第二研 北多摩郡小平町野中新田與衛門組字南(のなかしんでんよえもんぐみあざみなみ=「與」のあとの「右」が1字抜けていると思われる)七九五」という記載がありました。これは大変驚きです。というのは、陸軍技術研究所の「国分寺地区」内にある小平町域は現在の上水南町4丁目、旧町名「野中新田善左衛門組」で、一方「野中新田与右衛門組」は現在の花小金井1~5丁目、その「字南」は同1丁目あたり、西武新宿線の花小金井駅付近に位置しており、二つの地域はかなり離れています。もし、この官衙一覧表の手書きの所在地が間違いでなければ、第2陸軍技術研究所は「国分寺地区」ではない別の場所にあったことになります。

それでは第2研究所はいったいどこにあったのか。今度は「北多摩郡小平町野中新田与右衛門組字南795」という地番から探してみました。1962年の市制施行の直前に町内の8の旧町名(字)が33の新町名に変更されましたが、ほとんどの地域では地番の振り直しはされませんでした。そこで1964年発行の古い商工住宅名鑑(住宅地図)の地番一覧から795という地番を探すと、花小金井駅北口の目と鼻の先にある拓大第一高校(2004年に武蔵村山市に移転し、現在は駅前広場と一体で再開発されスーパーいなげやなどが立地)の敷地がまさにこの地番でした。

株式会社住宅協会『小平市商工住宅名鑑』(1964年)p.49より

国土地理院が公開している敗戦直後の米軍の空中写真(例えば USA-M377-105、1947年7月24日米軍撮影)を見ると、敷地内の建物の配置も、若干異なる部分はあるものの、第2研究所の建物配置図と似ていなくもありません。拓殖大学のウェブサイトの沿革などを見ましたが、当時の拓大予科と第2研究所とのつながりなどを示す情報は見つかりませんでした。

そこで、拓殖大学創立百年史編纂室にこの点を尋ねてみたところ、この点の手がかりとなる資料があることを教えていただきました。ご親切な対応に心から感謝いたします。資料には次のような記述があります。

「昭和19年9月27日
 拓殖大學予科教練実施状況報告
  拓殖大學予科陸軍軍事教官
   陸軍大佐 石黒嘉市
 教練実施報告
第一、学校長ノ教練ニ対スル方針及学校状況中特ニ必要ト認ムル事項
一、学校長ノ教練ニ対スル方針
 昨年度ト変化ナシ
二、学校状況中特ニ必要ト認ムル事項
 1.北多摩郡小平村ニ在リシ予科校舎ハ軍部ノ使用ニ供シ本年四月ヨリ小石川区ノ本校々舎ニ移転ス」(以下略。学校法人拓殖大学『拓殖大学百年史 資料編四』2004年 p.577)

これらの資料から、1944年4月から敗戦時点まで、第2陸軍技術研究所が西武鉄道(現在の西武新宿線)の花小金井駅前にあった拓大予科の敷地・校舎に置かれていたことはまず間違いなさそうです。タイトルに「新たな謎」などと書きましたが、書いているうちに解決してしまったようです。

比較のために第2研究所の建物配置図(再掲)と米軍の空中写真を掲げます。

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122075300、技術研究所施設に関する綴 昭和20年5月(防衛省防衛研究所)

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス USA-M377-105(1947年7月24日米軍撮影) ※画像はトリミングして掲載しています。

2020年9月6日日曜日

引揚者住宅をめぐる事件(2)

2年も間が空いてしまいましたが、さらに関連する引用をもう少しだけ続けます。

日本労働年鑑1951年版(第23集)

The Labour Year Book of Japan 1951
第一部 労働者状態
第五編 労働者の生活
第三章 住宅

 「住宅占拠 住宅の獲得は引揚者団体を中核とする遊休建物の占拠という、最も尖鋭化したかたちで現われ、遂に四七年夏議会両院に住宅問題特別小委員会を作らせるに至つた。例えば東京に於ける目立った運動を列挙すれば次の通りである。

四六年八月 江東小学校三校の占拠
〃 一一月 烏山、田無寮の獲得
〃 一二月 毛利邸一部開放
四七年七月 国分寺旧陸軍技研の獲得
四八年一月 三鷹日本無線倉庫の獲得
〃 一〇月 烏山、第二烏山寮の獲得

 この間に住宅獲得同盟が結成されるなど、民主団体、労働組合との共同闘争が活発に行われている。」

日本労働年鑑 第23集/1951年版
発行 1951年1月1日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 時事通信社

引揚者住宅をめぐる事件(1)で引用した国会会議録や資料も合わせてまとめると、次のような事象があったことが分かります。

  • 1947年7月19日に旧陸軍技術研究所で引揚者による実力占拠事件があり、政府は同月22日、空家を引揚者に開放することを決定(同月31日付でなされた「国分寺旧陸軍技術研究所に関する特殊物件処理委員会委員長西尾長官の返答」とはこのことか)。
  • 1947年10月に「國分寺における事件」(その詳細は不明だが、7月の実力占拠事件のあとに起きた一家餓死事件などのことか)が起きた。
  • 1947年12月4日に参院の特別委員会メンバーが国分寺などの引揚者寮を視察し、「一家5人全部が餓死」などの話を寮長から聞いた。

ここで「國分寺」と言われているのはいずれも旧陸軍技術研究所のことを指しているようですが、厳密には旧陸軍技術研究所の敷地は現在の国分寺市域には存在せず、現在の小金井市、小平市域ということになります。敷地が国分寺に隣接しているということと、最寄り駅が国分寺駅であることから、このような表現が使われているものと思います。第5陸軍技術研究所、多摩陸軍技術研究所をルーツとする戦後の電波研究所や現在のNICTでも、この地に置かれた観測サイトをずっと「国分寺」と呼んでいるようです(例えば https://wdc.nict.go.jp/ISDJ/index.html)。

さて、終戦直後の資料の引用はこれくらいにして、今度はこの国分寺近辺の引揚者住宅の件が突然出現する最近の行政資料を紹介します。

第1257回東京都建築審査会議事録

開催日時 平成27(2015)年11月30日
p.3

「〇寺沢書記 それでは、議案第2067号について説明します。

 本件は、一戸建て住宅を新築するにあたり、法第43条第1項ただし書の適用について許可申請がなされたものです。建築物に係る概要について、様式2の表をご覧ください。

 1枚おめくりいただき、様式3をご覧ください。申請地は小平市上水南町で、■■線■■■駅から■に約■■■の場所に位置しております。本件に係る道は、配置図のとおり、東側及び西側で法42条2項道路に接続する、現況幅員3.985m~4.08m、延長47.97mの道です。「道に関する協定」において道部分の関係権利者全員の承諾が得られていないため、個別審査をお願いするものです。

 2枚おめくりいただき、2ページの協定図をご覧ください。黄色に塗られている部分が建築基準法による道路で、赤色に塗られている部分が本件の道です。また、桃色に塗られている部分は、将来的に後退する予定の道の部分となっております。資料右の道の所有者一覧表の通り、関係権利者12名中9名の承諾が得られております。

 3ページの現況写真をご覧ください。申請地は、写真②の自動車が停まっている土地です。本件の道は道路上に整備されており、塀等による敷地との境界も明確であるため、将来にわたって道として維持管理されるものと考えております。

 4ページ、配置図をご覧ください。計画建築物は、外壁及び軒裏を防火構造とし、防火性能を向上させるとともに、外壁から隣地境界までの離れ寸法を50cm以上確保した計画としております。

 以上により、本建築計画は、交通上、安全上、防火上及び衛生上支障がないものと認め、許可したいと考えております。

 説明は以上です。

〇河島議長 それでは、議案第2067号について、ご質問等がありましたらお願いします。

 私から1点お聞きします。4mに満たない部分は、申請地の北側の道の部分の15mm分と、その反対側の、■■■■さん、■■■■さん共有地の同じく15mm分、ここが4mに足りない部分ということでよろしいですか。

〇寺沢書記 はい。

〇河島議長 所有者一覧表を見ると、今の15mmに係る土地も全部、■■■の公衆用道路に含まれる――表の表示はそうなっていると思いますが、それでよろしいですか。

〇寺沢書記 はい。この筆は幅員4mで一筆の土地で、その部分に塀が飛び出しております。

〇河島議長 本来、公衆用道路が4mで決められていることは、何かで確認できますか。

〇寺沢書記 地積測量図を登記所に出しており、それを確認すると4mになっております。公衆用道路に筆を切った際に、そういう形で切ったと聞いております。

〇河島議長 公衆用道路に筆を切ったのは、いつの時期ですか。

〇寺沢書記 手元に資料がないのでわかりません。

〇河島議長 可能性としては、公衆用道路を登記所で、筆を切って公衆用道路としての登記を認める際に、現況測量図を見て、4mであることを確認してということであるならば、公衆用道路として認められているところに塀が出っ張っていると理解できますが、主張の仕方としては、それはもともと私たちの土地です、■■■■の土地ですというような主張になるおそれはないですか。

〇寺沢書記 過去の経緯を調べたところ、私の記憶ですが、もともと都有地であったようです。戦後、引揚者住宅のような形で、全体が都有地で、こういう形で切って、そこに平屋の戸建てが並んでいたという経緯がある土地だそうです。その後、■■さんなり、■■■■さんなりに都有地を売却して、現状の塀や住宅が建てられてきたという経緯がありますので、もともとは大きな土地で、時系列的に言うと、筆を切った時点では塀はなく、■■さんが土地を買われて住宅を建てる際に塀を飛び出してつくってしまったと聞いております。(下線は筆者)

〇そうすると、戦後の引揚者住宅をつくられていたときに、赤く塗られたこの道は当時から道の状態であって、それに接する引揚者住宅を払い下げる形で今日に至っている。

 そうすると、その道も、はっきりした資料が今はないから断定的には言いにくいけれども、売却などを進める際に公衆用道路として位置づけられたもの、ですからそれは当然4mで、そこだけ15mm減らしてという前提にはなっていないと考えられるということですね。

〇寺沢書記 はい、そのとおりです。

〇河島議長 では、そのことで疑義が生じるようなことはないと。

 わかりました。

 ほかにはよろしいですか。

 それでは、次の案件の説明をお願いします。」

ここに、かつて小平市上水南町にあった引揚者住宅の話が登場します。場所的には陸軍技術研究所のあった現在の小金井市貫井北町の西隣に位置する住宅街です。小平市立図書館上水南分室(公民館の一角にある小さな図書室で、レファレンス係なども特にありません)の方に「この上水南町にも、かつて引揚者住宅があったという資料を見たが、どのへんにあったのだろうか」と尋ねたところ、「はっきりしたことは分からないが、この公民館の前の道を東の方に行ったところに引揚者住宅があったと聞いたことがある」とのことです。これは耳寄りな情報です。
そう言われてみれば、確かにその辺に間口が狭く分割された一群の住宅が並んでいます。現にお住まいの方もいらっしゃるので、現状の写真を掲げることは控えますが、国土地理院(地図・空中写真閲覧サービス)で提供されている空中写真の画像データを3枚貼り付けます。



これは米軍が1947年11月14日に撮影した空中写真(R556-No1-7)から一部分を切り出したものです。 写真右端が住宅営団の建設した桜上水東住宅、左端が桜上水西住宅で、東住宅は主に陸軍技術研究所の職員用、西住宅は主に陸軍経理学校の職員用の住宅として建設されたと聞きます。多くの家屋はいわゆる2軒長屋の構造で、のちにその2軒長屋を2軒に分割して払い下げたようです。その間に少しだけ東西に長い建物が4棟写っています。また、よくみると西住宅の北西隅の方にもやや長い建物が3棟写っています。これらも住宅営団が建設した住宅だったのだろうと思いますが、詳しいことはよく分かりません。



これは国土地理院が1961年9月5日に撮影した空中写真(MKT615-C26-28)から一部分を切り出したものです。上記の米軍撮影の写真とほぼ同じエリアが写っていますが、14年間の変化として、旧営団住宅の周囲に都営住宅や戸建て住宅ができたのと、上記の東西に長い建物のあった地点に細かく分割されたような家屋が建ち並んでいることが何とか分かります。



これは国土地理院が1975年1月20日に撮影した空中写真(CKT7415-C26-1)から上記2枚の写真とほぼ同じエリアを切り出したものです。さらに14年経って、2軒長屋はいずれも分割されてしまったようですが、上記の東西に長い建物があった地点は、特に密集度が高くなったように感じられます。

ここからは少し推測が混じりますが、住宅営団が建てた住宅のほとんどは世帯者を前提にした造りで、2軒長屋ではあっても各世帯の区画は壁でしっかり区切られていました。これに対して、上記で言及した東西に長い建物は、例えば単身者寮のような相部屋の造りだったのではないかと思います。なお、これらを建設した住宅営団は、戦時下に軍関係者向け住宅を多数建築したために、戦後GHQから戦時経済政策遂行のための機関と見なされて機関の閉鎖が命じられました。払い下げ前の住宅や建設未着手の土地などは都道府県の住宅局などに移管されたといいます。戦後それらの空き施設が引揚者住宅となり、この写真の建物の場合は6世帯くらいずつ押し込められるような形で入居したのではないかと想像します。その後、遅くとも1961年の空中写真撮影の時点までに他の営団住宅とともに引揚者住宅も居住者に払い下げられることになったために、無理やり6世帯分くらいに土地を分割し、既存の建物は6分割できないために間口の狭い住宅をそれぞれが建築したという経過をたどったのではないか――というのが筆者の推測です。

最後に、営団桜上水(西)住宅のエリアで建築当時の姿をよく残していると思われる一般住宅の写真を紹介します。




2018年8月25日土曜日

引揚者住宅をめぐる事件(1)

戦後、満州や朝鮮半島などから内地に引き揚げた人々の住宅問題は相当深刻で、公営の引揚者住宅が整備(軍の兵舎など遊休国有施設の提供を含む)されるまでには、引揚者団体による遊休国有施設の実力占拠などの動きもあったそうです。国会の会議録を見ると、そうした事例に言及・紹介する質問の中で「国分寺」「旧陸軍技術研究所」という言葉が何度か登場します。

第1回国会参議院治安及び地方制度委員会会議録23号 1947年12月07日(6ページ)

「○委員外議員(矢野酉雄君)

 實は一昨々日特別委員會の者は東京を中心といたしました引揚者の一時寮竝びに定著しております各寮をお見舞し、又視察をさせて頂きましたが、實に言葉に絶する窮状でございます。例えば新聞にもよく報道されましたあの國分寺の寮の如き、それは何千坪という建物と、それから何十萬坪という、總計六十萬坪はありますが、土地がそのままになつておりますのに、こんな一つの建物を與えられておるところの引揚者達は、全く窓もございません。」「いよいよ生活に窮して最前お話申しましたところの國分寺の寮の寮長が申しましたのに、ちよつとした注意が私共が足らなかつたために一家五人全部が飢え死をしているのです」

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/001/1336/00112071336023.pdfhttp://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/001/1336/main.html

第1回国会(特別会)質問主意書

「(質問第五十号)昭和二十二年九月三日配付

住宅問題についての質問主意書

右の質問主意書を国会法第七十四条によつて提出する。

  昭和二十二年九月二日

    北條秀一

   参議院議長 松平恒雄殿

 住宅問題についての質問主意書

 敗戦日本再建に最も緊急の必要に迫られながら最も貧弱なる結果しかもたらしていない施策の中に住宅問題がある。このことは既に参議院の自由討議においても取上げられ大方語り尽された通りであるが、我々引揚者は戦災者及び一般困窮者と共に此の問題に関しては以上の認識に止らず抜本的対策の樹立と更に何よりもその一刻も速やかな実施断行を望むものである。以下数点に亘り政府の覚悟と具体的な方策を御うかがいしたい。

一、政府は国有財産(旧軍財産)に就ては財政収入の見地のみでなく民生安定の面からもその活用を考慮される由(国分寺旧陸軍技術研究所に関する特殊物件処理委員会委員長西尾長官の返答―七月三十一日)であるが、遊休官有建物にも民生安定政策から之を活用する意思はないか、且つ右の物件にして既に貸下げられたものでも名儀のみで実際は使用せざるか、ブローカー的に又貸ししているもの、或は一部使用で大部分は無使用に放任されているもの等に対しては貸下げ許可取消し、或はそれを引場者等に開放する為の責任ある調査及び積極的斡旋をなす意思ありや否や。」(以下略)

http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/001/syuh/s001050.htm

第3回国会衆議院本会議録20号 1948年11月25日(185~186ページ)

「○梶川靜雄君

 第五番目に住宅の問題でありますが、引揚者にとりまして、住宅の問題は、食あるいは衣以前の問題であると称されておるのであります。すなわち、現に数縣の例をとつて見ましても、引揚者の約六割は雑居生活であります。懸念措置といたしまして國有財産関係の開放がなされておりますが、しかしながら、これとても住宅化せられていないのでありまして、これが集合住宅化はすみやかになされなければならないと思うのであります。さらにまた國有財産関係の貸與という問題を見ましても、これが貸與を受けまして、そうして権利の上に眠つているものが多数あるのであります。これらに対しましては嚴重なる調査をいたしまて、すみやかに適当なる処置を講ぜられたいと思うのであります。

 あるいはまた庶民住宅の問題でありますが、現在七、八十万人の者が、住宅難で困窮しておるのであります。しかも、これらに対する対策が何らいたされていない証拠には、昨年の十月におきまして、國分寺における事件がありました。さらに今年の年頭におきましても千駄ヶ谷の占拠事件があり、あるいは先日も烏山病院の占拠事件が起つておるのであります。かくのごとく、各地において、まさに不祥事ともいうべき住宅占拠問題が起つておりますのは、すなわち住宅問題が引揚者にとつていかに重大な問題であるかということを如実に物語つておると思うのであります。」

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/003/0512/00311250512020.pdfhttp://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/003/0512/main.html

また、インターネットでは、次のような情報も見つかりました。

日本占領期年表 1947年

「7月19日 東京都引揚者団体連合会、旧陸軍技術研究所の空家500棟を占拠。(今月22日、引揚げ者への開放が決定)
7月22日 旧陸軍技術研究所の空家を引揚げ者へ開放。」
http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/senryou/1947.htm

冨貴島明「『豊かさ』に関する意識の変容(1)」(13ページ)

「7月19日、東京の三多摩厚生会などの引揚者団体が、住宅を要求して、国分寺の旧陸軍技術研究所を実力占拠した。」
http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-KJ00000108438.pdf

2018年8月10日金曜日

小金井の陸軍技術研究所跡地を開拓した人々



「小金井市 昭和の開拓記録 中部農事組合の歴史」という私家本をご紹介します。

この私家本は、現在の小金井市貫井北町・桜町、小平市上水南町にまたがる広大な範囲に戦時中存在した陸軍技術研究所の跡地の一部を終戦直後の食料難の時代に農地として開墾した元陸軍兵器行政本部や元研究所の勤務員等の方々の開拓の歴史について、1993年に小金井市貫井北町に住む石田進氏(現在は故人)らが随想、古い写真、図面などをまとめてアルバムの形で遺したものです。

跡地のかなりの部分は、現在の東京学芸大学や情報通信研究機構、東京サレジオ学園、小金井市立の小中学校、グラウンドなどの学校・研究施設、公共施設の敷地にまとまった形で転用されたほか、戦後10年ほど経ってから、すでに民間の農地となっていた土地を買い受けて東京都住宅公社の小金井本町住宅や国家公務員住宅も建設されました。こうした公共関係の敷地に利用された部分のほかに、現在は一般の民家が立ち並ぶ住宅地となっているエリアもあります。この「中部農事組合の歴史」は、こうした研究所跡地の変遷を知る重要な手がかりを与えてくれる資料です。

小金井市立図書館の地域資料の棚にあった「中央大学附属中学校・高等学校『校史』1909-2012」を手に取って見ていた際に、1963年に小金井市貫井北町3丁目に中大付属高校が開設された時の用地取得の経緯の記述の中で、この私家本の存在を知りました。同校史では、中大付属高校開校と同時に正門前でパン屋さん(のちクリーニング取り次ぎ屋に転業、つい最近の2018年3月に閉店)を開いた加藤商店店主の加藤さんが提供した資料としてこの「中部農事組合の歴史」から、石田進氏による巻頭言を引用しています。

加藤商店にお電話をして、この私家本を見せてもらえないかとお願いしたところ、石田進氏のご長男が同じ町内にお住まいだというので、ご長男に連絡を取り、ご厚意により、写真アルバム1冊にまとめられたこの私家本をお借りしてデジタル画像で複製することができました。以下、個人情報にあたる部分を加工したうえで、ご紹介させていただきます。

巻頭言 中部農事組合の歴史(石田進氏)

 大東亜戦争(第2次世界大戦・太平洋戦争とも言う)の熾烈を極むる頃、各官庁では最小限の食料を自給する必要に迫られ、私たちの所属する陸軍兵器行政本部でも、東京都小金井市緑地公園の一部(約5町歩 15,000坪)を借り受けて、伊藤陸軍大尉を隊長として各部署より体躯強健な要員を選出し農耕隊を編成して、この用地を開拓して甘薯(さつま芋)その他の作物を栽培しました。
 しかし同年の8月戦争終結により軍は閉鎖解散となり、多くの人は郷里へ復員し伊藤大尉も復員されたので、石田が伊藤隊長より、以後の業務を引き継ぎ、残った人達は近くの陸軍技術研究所構内に集合して復員業務に従事しながら収穫を待ちました。その年は天候に恵まれ予期以上の多大な収穫を成し、復員業務を行なっていた多くの職員の食料供給に大いに貢献をしたのでした。
 陸軍の施設であるこの研究所は、米軍の占領接収地として米軍の管理下におかれ、米軍が進駐して警備と管理を行なっていました。陸軍は終戦の処理の一環として占領軍司令部と折衝をして、陸軍技術研究所構内の用地のなかで耕作可能な部分を、陸軍兵器行政本部職員および陸軍技術研究所員より、帰農を希望する者のために農地に使用することを認めさせました。
 元来、当時の陸海軍の接収地のほとんどは、各種の事業や企業にむけられるのが普通であったが、当小金井・小平地区は、軍用地に買収した年月が極めて浅いため、陸軍兵器行政本部の残務整理部長の特別の計らいで、元の地主には農耕適地を返還し、あとの山林原野の部分を開拓して窮乏している食料の増産を計ることになったのです。
 しかし我々帰農者の多くは農業経験には浅く且つ農機具も乏しく、主に不在地主の山林原野の急傾斜地や雨期には水の溜まるような低地を、苦心惨憺して日夜必死になって開拓していきました。一抱えより大きい松の大木や、牛の寝そべったような雑木の株や灌木の大きな根で、一株を掘り起こすのに数日以上の労苦に汗を流して一心に斧や鋸を握り、鍬を振るい夢中で開拓に励む毎日でした。
 まさに言語に絶する艱難辛苦の毎日でありました。当時の入植者は22戸であったが、経験の無い重労働に挑み一日も早く収穫を得んものと努力しましたが、収入もなく乏しい食料を皆で分かち合い励ましあい、米麦の収穫や刈り入れ脱穀には、全員の家族が共同作業で行ない、皆んな一つの家族同様の生活共同体で助け合いながら乗り切って来ました。
 このような非常な困苦を乗り越えた努力は、着実な成果を挙げて、農林省の行なう開拓成功検査には、他の地区に見ない立派なものとして高く評価され模範的な開拓地として、自作農創設特別措置法に基ずき、各人の開拓実績による農地の面積を、東京都知事より売り渡しをされたものです。
 さらに各組合員は渾身の努力を絞り、非力な開拓農地の肥沃化に腐心し肥料になるものは、悪路も厭わず遠くまでリヤカーや荷車を引いて収集に努力して農事に熱心に取り組み収穫を上げてきました。当時は食糧不足のため、農家には国より生産物の強制的な出荷割り当てがありました。乏しい生産量の中から組合員に割り当てられた食料の供出も完納し、またある年は特別供出にも応じて感謝状を授与された事もありました。また農産物品評会にも度々出品して各種の入賞を得たことも度々であり、各員の努力がいかに高揚されていたかを思い起こし、その努力に頭の下がる思いがするのであります。
 しかし、このようにして苦心惨憺して開拓造成された農地も戦後の復興とともに、近郊地域の都市化の波には抗しきれず、元上司や市の斡旋もあって現在の東京都住宅公社・貫井北町の国家公務員住宅および西武分譲地などの住宅用地として開放することになりました。
 私たちの中部農事組合員の開いたこの開拓地は、小金井市の中でも居住性や環境の良さと文化性も高く、ここに住む人々は憩いと潤いのある高級な住宅地として深い愛着を示しておられる人が多く、この様な素晴らしい町の基礎を作った、中部農事組合員の各家族の人々の辛酸労苦の賜物であることを忘れてはならないと思いいます。
 開拓当時の松の大木や雑木の生い茂った山林原野を思うとき、今日のこの様な姿は到底想像も出来ないことでした。当時の陸軍の用地の面積や地域における影響と、開拓者の開拓した農地の所在地など、歴史の一こまですが、皆さんの先祖が果たした苦労の痕跡は、私達の住む町の発展の礎の一つを成した事に誇りをもって、ここに仲間の面影の写真や当時の図面を複製してみました。
 今日ここに住いを持ち永住するに至ったのは、小金井市、農業協同組合、行政本部共栄会の関係者のご支援と協力を得たことを心より感謝すると共に、父母の言い尽くせない努力の賜もので有ります。このような、先祖の歩んだ歴史を後世に語り継いで欲しいものです。石田進

  開拓者たちの顔ぶれ

陸軍技術研究所の跡地を開墾した人々。1960年代頃の写真と思われる。
開拓者名簿(氏名は伏せてある)
武田信男閣下のご遺徳を憶う 石田進

陸軍技術研究所の敷地とその戦後の開墾割り当て

陸軍技術研究所開設にあたり陸軍が買収した範囲
敷地の中の各員の農耕地の分布状況(中央に縦に通るのが現在の新小金井街道。左下は東京学芸大学、その左上は東京サレジオ学園。開墾者の名前はアルファベットに置き換えてあります)
小金井公園緑地の農耕隊 終戦後の収穫記念

開拓者の回想と写真


間渕五郎氏の回想1
間渕五郎氏の回想2
稲穂神社より見た開拓された畑
両団地の中央の通りから見た開拓された畑 左上は第一中学と第二小学校・右手の森は稲穂神社
斜地や凹地が主だった 大雨が降ると水が溜まった(東京サレジオ学園から現在の国家公務員住宅、小金井本町住宅に至る一帯は古い仙川の河岸段丘地形で数メートルほどの高低差が今でも見られます)
やっと畑のようになり収穫の喜びを味あう
山根宏氏の回想1
山根宏氏の回想2
ここで紹介した「小金井市中部農事組合の歴史」の記事・写真はすべて石田進氏のご親族の了解をいただいて個人情報に留意の上で複写・転載したものです。無断転載を固くお断りいたします。

2017年9月13日水曜日

陸軍技術研究所の範囲


小金井市の旧浴恩館に設置された文化財センターに展示してあった「陸軍技術研究所の範囲」と題するパネルをスマートフォンで撮らせてもらいました。現在の地図上に戦前に小金井市・小平市にまたがって存在した陸軍技術研究所の敷地の範囲を図示したものです。

敷地の範囲自体は、1947年頃に米軍が撮影した空中写真にもよく見ると塀や門が写っていますのでだいたい分かりますが、この図では第一、第三、第五、第七、第八の各研究所の位置、試験場や勤務班、門の名称まで示してあり、貴重な資料だと思います。

門の位置が現在どうなっているかを見てみます。正門は学芸大学の正門です。南門は上の原通りの学芸大の少し手前ですが、これは東京第二師範学校の正門の門柱が1997年まで残っていたという場所。東門はかつて旧陸軍技術研究所時代の建物が残っていた上水公園の管理棟につながる道の入り口。北門は新小金井街道の茜屋橋の少し南の小金井市文書管理倉庫の近く。西門は現在の上水南町交差点になります。


2017年9月12日火曜日

昔の小金井祭パンフレット

 「小金井祭」というのは東京学芸大学の学園祭です。近年は毎年11月の初めの文化の日前後に開催しているようですが、以前は11月終わりの勤労感謝の日前後に開催していました。

左の写真は、古本屋で入手した大昔の小金井祭のプログラムを載せたパンフレットです。見るからにとても古いものですが、開催年が書かれていません。いったい何年頃のものなのでしょうか。
1日目のプログラムを見ると、講堂では「演劇コンクール」参加の演劇の題目が並んでいます。職業・家庭科(?)、数学、国語、社会など、クラス参加形式のようです。

ちなみに、「講堂」というのは陸軍技術研究所時代からの施設で、現在の大体育館の北側あたりにあったようです。

さて、「渡邊薬局 小金井町郵便局南隣」という広告があります。現在武蔵小金井駅北口のドンキホーテ西側の道を北に行って北大通りとぶつかる角にある小金井郵便局のことでしょうか。しかし、南隣に薬局らしきものがあったような気がしません。ウィキペディアで「小金井郵便局」を調べてみると、1968年11月18日に開局と書かれていますが、脚注に「同年8月以前にも市内に小金井郵便局が存在した(かつての所在地は前原坂上交差点の南東角であった。現在は場所が移動して小金井前原三郵便局となっている。)」とありますから、こちらの前原坂上交差点にあったという以前の小金井郵便局の南隣に渡邊薬局があったのかもしれません。このあたりは現在はマンションが建っていて、薬局らしきものは見当たりません。

2日目のプログラムも「演劇コンクール」の続きです。やはり国語、幼稚園、数学、社会、特殊教育とクラスの名前が並んでいます。「新聞会アトラクション」とは何でしょうか。

さて、広告欄です。「洋品と服地の店 大沢洋品店 小金井南口大通り」というお店は検索しても出てきませんが、武蔵小金井駅南口南一番街の一覧に「大沢花園」という花屋さんが見つかりました。代替わりで業種が替わることはあるのかもしれません。ただし、この花屋さんがあった場所は現在は1000円カットのお店になっています。

次の「かごや百貨店」は、検索すると武蔵野法人会のページに情報がありました。同会の2009年10月の会報の表紙に「前原坂上交差点から北に南口大通りを見る。メインストリートなので逸早く舗装が行われたようだ。左右手前にあるかごや百貨店では、当時の生活に欠かせない薪や木炭などが売られていた。昭和29 年(1954)ごろ」とあります。現在、前原坂上交差点すぐ北東側にある「かごや書店」がその現在の姿だろうと思います。

三つ目の「御菓子司つちや製造小売 支店小金井学大通り」の「学大通り」とはどこの通りのことでしょうか。

のいずれかの別名なのだろうと思いますが、戦災で焼失した官立東京第二師範学校(旧東京府立豊島師範学校)が戦後すぐの1947年に池袋から小金井に移った当時の正門の門柱の石が上の原通り沿いの新小金井街道よりも100メートルほど東側に1997年頃まで残っていたと言われている(筆者も見たことがあります)ことからすると、この上の原通り、つまり西友の裏通りを「学大通り」と呼んでいたのではないかと思います。

だとすると、「御菓子司つちや」は西友裏あたりにあったと考えられるのですが、西友裏のドトールの隣にある「そば処つちや」という蕎麦屋さんが何か関係ありそうです。
 ※「御菓子司つちや」が現在の「そば処つちや」であることをつきとめた方がいらっしゃいました。地主恵亮さんのブログ「多摩川源流大学」の2017年4月20日のエントリー「50年前のガイドブックで食事と買い物に行く」に書かれています。

3日目のプログラムはサークル公演で、人形劇、放送劇、演劇、ダンスと、時代を感じさせる演目です。

広告欄を見ると、まず「おそばは はっとり 小金井駅北口前」とあります。北口前に西友ができる前の写真、例えば「たまちゃんと見よう!たまの写真いまむかし」のページを見ると、西友の1階にかつてあった旧第一勧銀小金井支店あたりの位置に「生蕎麦(食)堂」という看板が掲げられた店があり、写真説明に「建設中の西友と左に服部そば店」とあるので、これでまちがいないでしょう。この写真は1965年撮影です。

次の広告「文房具の御用は あぶらや文具店 小金井駅南口」は今のところ手がかりが得られていません。

「中村文具店 小金井駅南口」は現在も健在で、ウェブサイトまであります。「武蔵小金井で60年続いた文具店三代目です。再開発の道路拡張で駅前の店舗(先述の大沢花園の小金井街道を挟んだ向かい)は取り壊しを余儀なくされましたが、小金井神社付近に古文房具のお店を開いています」とあります。この古文房具のお店、ちょっと行ってみたくなります。


4日目のプログラムは体育館で音楽関係サークル公演。ただし、童謡やクラシックばかりで、フォークもロックもありません。

ちなみに、「体育館」というのは現在の新小金井街道に面した「グラウンド門」、かつての「プール門」を入ってすぐ左、現在「学芸の森保育園」が建っているあたりにかつて存在した施設のようです。

さて、広告です。「古本誠実評価買入 伊東書房」は店頭販売はやめてしまったようですが、店舗は武蔵小金井駅北口小金井街道沿いに今もあります。

「学大特約店 小山書店 小金井駅北口御行通り」は、前述の行幸通り沿いということになりますが、どのへんにあったのか、今のところ手がかりなしです。

「古書籍専門 国分寺書店 国分寺大学通り」は、椎名誠「さらば国分寺書店のオババ」に登場する頃は国分寺駅南口にあったはず(このへん?)ですが、この広告では大学通り(国分寺駅北口の西友前から早稲田実業方向に抜ける道の通称)となっているので、後に南口ができて移転したのでしょうか。南口ができたのは1956年です。

「吟味乃品 破格乃値 お菓子はさゝや 小金井駅北口」。かわいいイラスト付きの広告ですが、手がかりなしです。


最終日、講堂ではクラス・科・サークル参加の合唱祭、そして中庭で歌とフォークダンスによる後夜祭。時代を感じさせます。

展示については次ページと合わせて観察します。

さて、広告です。「精米雑穀 田中米穀店 学大通用門前」とありますが、「学大通用門」とはどこを指すのかがよく分かりません。現在では正門東門グラウンド門北門西門、さらにドラえ門などとも呼ばれるグラウンド北の通用門がありますが、この通用門のことなのか。田中米穀店についても手がかりなしです。

「パイロット万年筆専門店 万年筆病院(修理一切) 大町文具店 国分寺大学通り」は、「ミニコミ国分寺」41号掲載の国分寺北口マップ(1966年住宅地図を下敷きにしたもの)によると、以前居酒屋の「一休」が入っていたビルのあたりにあったようです。

「小金井映劇」は映画館ですが、どこにあったのでしょうか。上映作品は「夫婦善哉」が1955年9月公開、「たけくらべ」が1955年8月公開、「地獄への退却」が1952年制作・1954年4月公開、「力闘空手打ち」が1955年8月公開と分かりました。また、「小金井映画劇場」というキーワードで検索すると、「消えた映画館の記憶」というサイトの1953年の関東地方の映画館のリストに記載がありましたが、残念ながら所在地の記載はありません。

さて、展示の一覧を見てみましょう。

教育研究部、聾教育研究部、児童文化研究部などというサークル名がいかにも教員養成大学らしいです。

平和を守る会の「砂川問題について幻灯展示」は1955~1957年の第一次砂川基地拡張反対闘争に参加した学生らの報告でしょうか。

社会科学研究部の「三鷹事件について展示」は、1949年7月に三鷹電車区で起きた無人電車暴走事件(国鉄労働組合員らが犯人とされ、うち1人が死刑判決を受けた後に獄中で病死)を取り上げたもののようです。

政経研究部の「行政協定研究」は、1952年に締結された旧日米安保条約に基づく日米行政協定、現在で言う日米地位協定取り上げたもののようです。

2年8組(社会科)の「憂うべき教科書について」は、1955年8月に日本民主党(のちに保守合同で自民党になった政党の一つ)が「うれうべき教科書の問題」というパンフレットを発行して教科書の「偏向」を攻撃した問題を取り上げたものでしょう。

いずれも、1950年代の学生運動や社会科学研究サークルの活発な活動の様子を感じさせるものです。

さて、広告です。「文具雑貨 日進堂 小金井学大通り」は、ドンキホーテ裏の文具店ですね。

「和洋酒味噌醤油 大島商店」は1936年創業で、南口のローソンの入っている「大嶋ビル」に現存しています。ウェブサイトに詳しい沿革が出ています

「新しい東京牛乳 国分寺清水牛乳工場」は国分寺駅北口の三菱東京UFJ銀行の西側に1970年代くらいまであった牛乳工場のようです。

「学内くつ修理 石井靴店」は、学内に店舗を構えていたのか、それとも巡回してきていたのか、詳細不明です。1970年代頃は学内に理髪店もありましたので、靴の修理屋さんがあってもおかしくない気がします。

パンフレットの最終ページは学内の地図です。『東京学芸大学五十年史』の105ページに1951年3月末に東京第二師範学校から東京学芸大学に引き継いだ校地の図面が載っていますが、その1951年校地図では東門を入ってすぐのあたりに未使用地があったりするので、このパンフレットの地図はそれよりもあとの時代のように思われます。

『五十年史』の110ページに載っている1956年3月末時点の校地図を見ると、キャンパスが西側に大きく広がって、現在の敷地とほぼ同じ広さになっていますが、このパンフレットの地図は、まだキャンパスが西側に広がる前の時期であるように見えます。教室の番号の振り方を見ても、1956年校地図では教室数が増えて番号を振り直していることが分かります。

このパンフレットの地図にある「10番教室」は、1956年3月には「20番教室」と番号が振り直されていますが、1970年代頃には再び「10番教室」と呼んでいたような記憶があります。

これらの教室は、陸軍技術研究所時代の木造兵舎をそのまま、あるいは間仕切りし直したりして使用していたようです。その後、1~4号館などの鉄筋コンクリートの校舎が整備されたのちは、一部はサークル部室に転用されたり取り壊されたりしましたが、上記の10番教室のようにかなりあとまで教室として使用されていたものもあります。

さて、以上見てきたことから、このパンフレットを作った小金井祭は、だいたい1955年から1957年の間に開催したものなのではないかという推理が成り立ちます。映画館の広告を見ると1955年の可能性が高いように思えるのですが、当時のカレンダーを調べると、平日に始まって最終日の24日が日曜日となるのは1957年で、1955年1956年は曜日的にやや無理があるようでした。1957年説を採ると上記の1956年3月校地図とパンフレットの地図との齟齬があり、すっきりしませんが、このあたりで考察を終わりとします。

なお、学芸大学のキャンパスが小金井に統合されたのは1964年なので、この1950年代には小金井キャンパスでは1~2年生が学んでいました。

もしこのページをご覧になられて、このパンフレットの小金井祭の実際の開催年などをご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひコメント欄でお知らせください。