2018年8月25日土曜日

引揚者住宅をめぐる事件(1)

戦後、満州や朝鮮半島などから内地に引き揚げた人々の住宅問題は相当深刻で、公営の引揚者住宅が整備(軍の兵舎など遊休国有施設の提供を含む)されるまでには、引揚者団体による遊休国有施設の実力占拠などの動きもあったそうです。国会の会議録を見ると、そうした事例に言及・紹介する質問の中で「国分寺」「旧陸軍技術研究所」という言葉が何度か登場します。

第1回国会参議院治安及び地方制度委員会会議録23号 1947年12月07日(6ページ)

「○委員外議員(矢野酉雄君)
 實は一昨々日特別委員會の者は東京を中心といたしました引揚者の一時寮竝びに定著しております各寮をお見舞し、又視察をさせて頂きましたが、實に言葉に絶する窮状でございます。例えば新聞にもよく報道されましたあの國分寺の寮の如き、それは何千坪という建物と、それから何十萬坪という、總計六十萬坪はありますが、土地がそのままになつておりますのに、こんな一つの建物を與えられておるところの引揚者達は、全く窓もございません。」「いよいよ生活に窮して最前お話申しましたところの國分寺の寮の寮長が申しましたのに、ちよつとした注意が私共が足らなかつたために一家五人全部が飢え死をしているのです」
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/001/1336/00112071336023.pdf
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/001/1336/main.html

第1回国会(特別会)質問主意書

「(質問第五十号)昭和二十二年九月三日配付
住宅問題についての質問主意書
右の質問主意書を国会法第七十四条によつて提出する。
  昭和二十二年九月二日
    北條秀一
   参議院議長 松平恒雄殿
 住宅問題についての質問主意書
 敗戦日本再建に最も緊急の必要に迫られながら最も貧弱なる結果しかもたらしていない施策の中に住宅問題がある。このことは既に参議院の自由討議においても取上げられ大方語り尽された通りであるが、我々引揚者は戦災者及び一般困窮者と共に此の問題に関しては以上の認識に止らず抜本的対策の樹立と更に何よりもその一刻も速やかな実施断行を望むものである。以下数点に亘り政府の覚悟と具体的な方策を御うかがいしたい。
一、政府は国有財産(旧軍財産)に就ては財政収入の見地のみでなく民生安定の面からもその活用を考慮される由(国分寺旧陸軍技術研究所に関する特殊物件処理委員会委員長西尾長官の返答―七月三十一日)であるが、遊休官有建物にも民生安定政策から之を活用する意思はないか、且つ右の物件にして既に貸下げられたものでも名儀のみで実際は使用せざるか、ブローカー的に又貸ししているもの、或は一部使用で大部分は無使用に放任されているもの等に対しては貸下げ許可取消し、或はそれを引場者等に開放する為の責任ある調査及び積極的斡旋をなす意思ありや否や。」(以下略)
http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/001/syuh/s001050.htm

第3回国会衆議院本会議録20号 1948年11月25日(185~186ページ)

「○梶川靜雄君
 第五番目に住宅の問題でありますが、引揚者にとりまして、住宅の問題は、食あるいは衣以前の問題であると称されておるのであります。すなわち、現に数縣の例をとつて見ましても、引揚者の約六割は雑居生活であります。懸念措置といたしまして國有財産関係の開放がなされておりますが、しかしながら、これとても住宅化せられていないのでありまして、これが集合住宅化はすみやかになされなければならないと思うのであります。さらにまた國有財産関係の貸與という問題を見ましても、これが貸與を受けまして、そうして権利の上に眠つているものが多数あるのであります。これらに対しましては嚴重なる調査をいたしまて、すみやかに適当なる処置を講ぜられたいと思うのであります。
 あるいはまた庶民住宅の問題でありますが、現在七、八十万人の者が、住宅難で困窮しておるのであります。しかも、これらに対する対策が何らいたされていない証拠には、昨年の十月におきまして、國分寺における事件がありました。さらに今年の年頭におきましても千駄ヶ谷の占拠事件があり、あるいは先日も烏山病院の占拠事件が起つておるのであります。かくのごとく、各地において、まさに不祥事ともいうべき住宅占拠問題が起つておりますのは、すなわち住宅問題が引揚者にとつていかに重大な問題であるかということを如実に物語つておると思うのであります。」
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/003/0512/00311250512020.pdf
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/003/0512/main.html
また、インターネットでは、次のような情報も見つかりました。

日本占領期年表 1947年

「7月19日 東京都引揚者団体連合会、旧陸軍技術研究所の空家500棟を占拠。(今月22日、引揚げ者への開放が決定)
7月22日 旧陸軍技術研究所の空家を引揚げ者へ開放。」
http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/senryou/1947.htm

冨貴島明「『豊かさ』に関する意識の変容(1)」(13ページ)

「7月19日、東京の三多摩厚生会などの引揚者団体が、住宅を要求して、国分寺の旧陸軍技術研究所を実力占拠した。」
http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-KJ00000108438.pdf

2018年8月10日金曜日

小金井の陸軍技術研究所跡地を開拓した人々



「小金井市 昭和の開拓記録 中部農事組合の歴史」という私家本をご紹介します。

この私家本は、現在の小金井市貫井北町・桜町、小平市上水南町にまたがる広大な範囲に戦時中存在した陸軍技術研究所の跡地の一部を終戦直後の食料難の時代に農地として開墾した元陸軍兵器行政本部や元研究所の勤務員等の方々の開拓の歴史について、1993年に小金井市貫井北町に住む石田進氏(現在は故人)らが随想、古い写真、図面などをまとめてアルバムの形で遺したものです。

跡地のかなりの部分は、現在の東京学芸大学や情報通信研究機構、東京サレジオ学園、小金井市立の小中学校、グラウンドなどの学校・研究施設、公共施設の敷地にまとまった形で転用されたほか、戦後10年ほど経ってから、すでに民間の農地となっていた土地を買い受けて東京都住宅公社の小金井本町住宅や国家公務員住宅も建設されました。こうした公共関係の敷地に利用された部分のほかに、現在は一般の民家が立ち並ぶ住宅地となっているエリアもあります。この「中部農事組合の歴史」は、こうした研究所跡地の変遷を知る重要な手がかりを与えてくれる資料です。

小金井市立図書館の地域資料の棚にあった「中央大学附属中学校・高等学校『校史』1909-2012」を手に取って見ていた際に、1963年に小金井市貫井北町3丁目に中大付属高校が開設された時の用地取得の経緯の記述の中で、この私家本の存在を知りました。同校史では、中大付属高校開校と同時に正門前でパン屋さん(のちクリーニング取り次ぎ屋に転業、つい最近の2018年3月に閉店)を開いた加藤商店店主の加藤さんが提供した資料としてこの「中部農事組合の歴史」から、石田進氏による巻頭言を引用しています。

加藤商店にお電話をして、この私家本を見せてもらえないかとお願いしたところ、石田進氏のご長男が同じ町内にお住まいだというので、ご長男に連絡を取り、ご厚意により、写真アルバム1冊にまとめられたこの私家本をお借りしてデジタル画像で複製することができました。以下、個人情報にあたる部分を加工したうえで、ご紹介させていただきます。

巻頭言 中部農事組合の歴史(石田進氏)

 大東亜戦争(第2次世界大戦・太平洋戦争とも言う)の熾烈を極むる頃、各官庁では最小限の食料を自給する必要に迫られ、私たちの所属する陸軍兵器行政本部でも、東京都小金井市緑地公園の一部(約5町歩 15,000坪)を借り受けて、伊藤陸軍大尉を隊長として各部署より体躯強健な要員を選出し農耕隊を編成して、この用地を開拓して甘薯(さつま芋)その他の作物を栽培しました。
 しかし同年の8月戦争終結により軍は閉鎖解散となり、多くの人は郷里へ復員し伊藤大尉も復員されたので、石田が伊藤隊長より、以後の業務を引き継ぎ、残った人達は近くの陸軍技術研究所構内に集合して復員業務に従事しながら収穫を待ちました。その年は天候に恵まれ予期以上の多大な収穫を成し、復員業務を行なっていた多くの職員の食料供給に大いに貢献をしたのでした。
 陸軍の施設であるこの研究所は、米軍の占領接収地として米軍の管理下におかれ、米軍が進駐して警備と管理を行なっていました。陸軍は終戦の処理の一環として占領軍司令部と折衝をして、陸軍技術研究所構内の用地のなかで耕作可能な部分を、陸軍兵器行政本部職員および陸軍技術研究所員より、帰農を希望する者のために農地に使用することを認めさせました。
 元来、当時の陸海軍の接収地のほとんどは、各種の事業や企業にむけられるのが普通であったが、当小金井・小平地区は、軍用地に買収した年月が極めて浅いため、陸軍兵器行政本部の残務整理部長の特別の計らいで、元の地主には農耕適地を返還し、あとの山林原野の部分を開拓して窮乏している食料の増産を計ることになったのです。
 しかし我々帰農者の多くは農業経験には浅く且つ農機具も乏しく、主に不在地主の山林原野の急傾斜地や雨期には水の溜まるような低地を、苦心惨憺して日夜必死になって開拓していきました。一抱えより大きい松の大木や、牛の寝そべったような雑木の株や灌木の大きな根で、一株を掘り起こすのに数日以上の労苦に汗を流して一心に斧や鋸を握り、鍬を振るい夢中で開拓に励む毎日でした。
 まさに言語に絶する艱難辛苦の毎日でありました。当時の入植者は22戸であったが、経験の無い重労働に挑み一日も早く収穫を得んものと努力しましたが、収入もなく乏しい食料を皆で分かち合い励ましあい、米麦の収穫や刈り入れ脱穀には、全員の家族が共同作業で行ない、皆んな一つの家族同様の生活共同体で助け合いながら乗り切って来ました。
 このような非常な困苦を乗り越えた努力は、着実な成果を挙げて、農林省の行なう開拓成功検査には、他の地区に見ない立派なものとして高く評価され模範的な開拓地として、自作農創設特別措置法に基ずき、各人の開拓実績による農地の免責を、東京都知事より売り渡しをされたものです。
 さらに各組合員は渾身の努力を絞り、非力な開拓農地の肥沃化に腐心し肥料になるものは、悪路も厭わず遠くまでリヤカーや荷車を引いて収集に努力して農事に熱心に取り組み収穫を上げてきました。当時は食糧不足のため、農家には国より生産物の強制的な出荷割り当てがありました。乏しい生産量の中から組合員に割り当てられた食料の供出も完納し、またある年は特別供出にも応じて感謝状を授与された事もありました。また農産物品評会にも度々出品して各種の入賞を得たことも度々であり、各員の努力がいかに高揚されていたかを思い起こし、その努力に頭の下がる思いがするのであります。
 しかし、このようにして苦心惨憺して開拓造成された農地も戦後の復興とともに、近郊地域の都市化の波には抗しきれず、元上司や市の斡旋もあって現在の東京都住宅公社・貫井北町の国家公務員住宅および西武分譲地などの住宅用地として開放することになりました。
 私たちの中部農事組合員の開いたこの開拓地は、小金井市の中でも居住性や環境の良さと文化性も高く、ここに住む人々は憩いと潤いのある高級な住宅地として深い愛着を示しておられる人が多く、この様な素晴らしい町の基礎を作った、中部農事組合員の各家族の人々の辛酸労苦の賜物であることを忘れてはならないと思いいます。
 開拓当時の松の大木や雑木の生い茂った山林原野を思うとき、今日のこの様な姿は到底想像も出来ないことでした。当時の陸軍の用地の面積や地域における影響と、開拓者の開拓した農地の所在地など、歴史の一こまですが、皆さんの先祖が果たした苦労の痕跡は、私達の住む町の発展の礎の一つを成した事に誇りをもって、ここに仲間の面影の写真や当時の図面を複製してみました。
 今日ここに住いを持ち永住するに至ったのは、小金井市、農業協同組合、行政本部共栄会の関係者のご支援と協力を得たことを心より感謝すると共に、父母の言い尽くせない努力の賜もので有ります。このような、先祖の歩んだ歴史を後世に語り継いで欲しいものです。石田進

  開拓者たちの顔ぶれ

陸軍技術研究所の跡地を開墾した人々。1960年代頃の写真と思われる。
開拓者名簿(氏名は伏せてある)
武田信男閣下のご遺徳を憶う 石田進

陸軍技術研究所の敷地とその戦後の開墾割り当て

陸軍技術研究所開設にあたり陸軍が買収した範囲
敷地の中の各員の農耕地の分布状況(中央に縦に通るのが現在の新小金井街道。左下は東京学芸大学、その左上は東京サレジオ学園。開墾者の名前はアルファベットに置き換えてあります)
小金井公園緑地の農耕隊 終戦後の収穫記念

開拓者の回想と写真


間渕五郎氏の回想1
間渕五郎氏の回想2
稲穂神社より見た開拓された畑
両団地の中央の通りから見た開拓された畑 左上は第一中学と第二小学校・右手の森は稲穂神社
斜地や凹地が主だった 大雨が降ると水が溜まった(東京サレジオ学園から現在の国家公務員住宅、小金井本町住宅に至る一帯は古い仙川の河岸段丘地形で数メートルほどの高低差が今でも見られます)
やっと畑のようになり収穫の喜びを味あう
山根宏氏の回想1
山根宏氏の回想2
ここで紹介した「小金井市中部農事組合の歴史」の記事・写真はすべて石田進氏のご親族の了解をいただいて個人情報に留意の上で複写・転載したものです。無断転載を固くお断りいたします。

2017年9月13日水曜日

陸軍技術研究所の範囲


小金井市の旧浴恩館に設置された文化財センターに展示してあった「陸軍技術研究所の範囲」と題するパネルをスマートフォンで撮らせてもらいました。現在の地図上に戦前に小金井市・小平市にまたがって存在した陸軍技術研究所の敷地の範囲を図示したものです。

敷地の範囲自体は、1947年頃に米軍が撮影した空中写真にもよく見ると塀や門が写っていますのでだいたい分かりますが、この図では第一、第三、第五、第七、第八の各研究所の位置、試験場や勤務班、門の名称まで示してあり、貴重な資料だと思います。

門の位置が現在どうなっているかを見てみます。正門は学芸大学の正門です。南門は上の原通りの学芸大の少し手前ですが、これは東京第二師範学校の正門の門柱が1997年まで残っていたという場所。東門はかつて旧陸軍技術研究所時代の建物が残っていた上水公園の管理棟につながる道の入り口。北門は新小金井街道の茜屋橋の少し南の小金井市文書管理倉庫の近く。西門は現在の上水南町交差点になります。


2017年9月12日火曜日

昔の小金井祭パンフレット

 「小金井祭」というのは東京学芸大学の学園祭です。近年は毎年11月の初めの文化の日前後に開催しているようですが、以前は11月終わりの勤労感謝の日前後に開催していました。

左の写真は、古本屋で入手した大昔の小金井祭のプログラムを載せたパンフレットです。見るからにとても古いものですが、開催年が書かれていません。いったい何年頃のものなのでしょうか。
1日目のプログラムを見ると、講堂では「演劇コンクール」参加の演劇の題目が並んでいます。職業・家庭科(?)、数学、国語、社会など、クラス参加形式のようです。

ちなみに、「講堂」というのは陸軍技術研究所時代からの施設で、現在の大体育館の北側あたりにあったようです。

さて、「渡邊薬局 小金井町郵便局南隣」という広告があります。現在武蔵小金井駅北口のドンキホーテ西側の道を北に行って北大通りとぶつかる角にある小金井郵便局のことでしょうか。しかし、南隣に薬局らしきものがあったような気がしません。ウィキペディアで「小金井郵便局」を調べてみると、1968年11月18日に開局と書かれていますが、脚注に「同年8月以前にも市内に小金井郵便局が存在した(かつての所在地は前原坂上交差点の南東角であった。現在は場所が移動して小金井前原三郵便局となっている。)」とありますから、こちらの前原坂上交差点にあったという以前の小金井郵便局の南隣に渡邊薬局があったのかもしれません。このあたりは現在はマンションが建っていて、薬局らしきものは見当たりません。

2日目のプログラムも「演劇コンクール」の続きです。やはり国語、幼稚園、数学、社会、特殊教育とクラスの名前が並んでいます。「新聞会アトラクション」とは何でしょうか。

さて、広告欄です。「洋品と服地の店 大沢洋品店 小金井南口大通り」というお店は検索しても出てきませんが、武蔵小金井駅南口南一番街の一覧に「大沢花園」という花屋さんが見つかりました。代替わりで業種が替わることはあるのかもしれません。ただし、この花屋さんがあった場所は現在は1000円カットのお店になっています。

次の「かごや百貨店」は、検索すると武蔵野法人会のページに情報がありました。同会の2009年10月の会報の表紙に「前原坂上交差点から北に南口大通りを見る。メインストリートなので逸早く舗装が行われたようだ。左右手前にあるかごや百貨店では、当時の生活に欠かせない薪や木炭などが売られていた。昭和29 年(1954)ごろ」とあります。現在、前原坂上交差点すぐ北東側にある「かごや書店」がその現在の姿だろうと思います。

三つ目の「御菓子司つちや製造小売 支店小金井学大通り」の「学大通り」とはどこの通りのことでしょうか。

のいずれかの別名なのだろうと思いますが、戦災で焼失した官立東京第二師範学校(旧東京府立豊島師範学校)が戦後すぐの1947年に池袋から小金井に移った当時の正門の門柱の石が上の原通り沿いの新小金井街道よりも100メートルほど東側に1997年頃まで残っていたと言われている(筆者も見たことがあります)ことからすると、この上の原通り、つまり西友の裏通りを「学大通り」と呼んでいたのではないかと思います。

だとすると、「御菓子司つちや」は西友裏あたりにあったと考えられるのですが、西友裏のドトールの隣にある「そば処つちや」という蕎麦屋さんが何か関係ありそうです。
 ※「御菓子司つちや」が現在の「そば処つちや」であることをつきとめた方がいらっしゃいました。地主恵亮さんのブログ「多摩川源流大学」の2017年4月20日のエントリー「50年前のガイドブックで食事と買い物に行く」に書かれています。

3日目のプログラムはサークル公演で、人形劇、放送劇、演劇、ダンスと、時代を感じさせる演目です。

広告欄を見ると、まず「おそばは はっとり 小金井駅北口前」とあります。北口前に西友ができる前の写真、例えば「たまちゃんと見よう!たまの写真いまむかし」のページを見ると、西友の1階にかつてあった旧第一勧銀小金井支店あたりの位置に「生蕎麦(食)堂」という看板が掲げられた店があり、写真説明に「建設中の西友と左に服部そば店」とあるので、これでまちがいないでしょう。この写真は1965年撮影です。

次の広告「文房具の御用は あぶらや文具店 小金井駅南口」は今のところ手がかりが得られていません。

「中村文具店 小金井駅南口」は現在も健在で、ウェブサイトまであります。「武蔵小金井で60年続いた文具店三代目です。再開発の道路拡張で駅前の店舗(先述の大沢花園の小金井街道を挟んだ向かい)は取り壊しを余儀なくされましたが、小金井神社付近に古文房具のお店を開いています」とあります。この古文房具のお店、ちょっと行ってみたくなります。


4日目のプログラムは体育館で音楽関係サークル公演。ただし、童謡やクラシックばかりで、フォークもロックもありません。

ちなみに、「体育館」というのは現在の新小金井街道に面した「グラウンド門」、かつての「プール門」を入ってすぐ左、現在「学芸の森保育園」が建っているあたりにかつて存在した施設のようです。

さて、広告です。「古本誠実評価買入 伊東書房」は店頭販売はやめてしまったようですが、店舗は武蔵小金井駅北口小金井街道沿いに今もあります。

「学大特約店 小山書店 小金井駅北口御行通り」は、前述の行幸通り沿いということになりますが、どのへんにあったのか、今のところ手がかりなしです。

「古書籍専門 国分寺書店 国分寺大学通り」は、椎名誠「さらば国分寺書店のオババ」に登場する頃は国分寺駅南口にあったはず(このへん?)ですが、この広告では大学通り(国分寺駅北口の西友前から早稲田実業方向に抜ける道の通称)となっているので、後に南口ができて移転したのでしょうか。南口ができたのは1956年です。

「吟味乃品 破格乃値 お菓子はさゝや 小金井駅北口」。かわいいイラスト付きの広告ですが、手がかりなしです。


最終日、講堂ではクラス・科・サークル参加の合唱祭、そして中庭で歌とフォークダンスによる後夜祭。時代を感じさせます。

展示については次ページと合わせて観察します。

さて、広告です。「精米雑穀 田中米穀店 学大通用門前」とありますが、「学大通用門」とはどこを指すのかがよく分かりません。現在では正門東門グラウンド門北門西門、さらにドラえ門などとも呼ばれるグラウンド北の通用門がありますが、この通用門のことなのか。田中米穀店についても手がかりなしです。

「パイロット万年筆専門店 万年筆病院(修理一切) 大町文具店 国分寺大学通り」は、「ミニコミ国分寺」41号掲載の国分寺北口マップ(1966年住宅地図を下敷きにしたもの)によると、以前居酒屋の「一休」が入っていたビルのあたりにあったようです。

「小金井映劇」は映画館ですが、どこにあったのでしょうか。上映作品は「夫婦善哉」が1955年9月公開、「たけくらべ」が1955年8月公開、「地獄への退却」が1952年制作・1954年4月公開、「力闘空手打ち」が1955年8月公開と分かりました。また、「小金井映画劇場」というキーワードで検索すると、「消えた映画館の記憶」というサイトの1953年の関東地方の映画館のリストに記載がありましたが、残念ながら所在地の記載はありません。

さて、展示の一覧を見てみましょう。

教育研究部、聾教育研究部、児童文化研究部などというサークル名がいかにも教員養成大学らしいです。

平和を守る会の「砂川問題について幻灯展示」は1955~1957年の第一次砂川基地拡張反対闘争に参加した学生らの報告でしょうか。

社会科学研究部の「三鷹事件について展示」は、1949年7月に三鷹電車区で起きた無人電車暴走事件(国鉄労働組合員らが犯人とされ、うち1人が死刑判決を受けた後に獄中で病死)を取り上げたもののようです。

政経研究部の「行政協定研究」は、1952年に締結された旧日米安保条約に基づく日米行政協定、現在で言う日米地位協定取り上げたもののようです。

2年8組(社会科)の「憂うべき教科書について」は、1955年8月に日本民主党(のちに保守合同で自民党になった政党の一つ)が「うれうべき教科書の問題」というパンフレットを発行して教科書の「偏向」を攻撃した問題を取り上げたものでしょう。

いずれも、1950年代の学生運動や社会科学研究サークルの活発な活動の様子を感じさせるものです。

さて、広告です。「文具雑貨 日進堂 小金井学大通り」は、ドンキホーテ裏の文具店ですね。

「和洋酒味噌醤油 大島商店」は1936年創業で、南口のローソンの入っている「大嶋ビル」に現存しています。ウェブサイトに詳しい沿革が出ています

「新しい東京牛乳 国分寺清水牛乳工場」は国分寺駅北口の三菱東京UFJ銀行の西側に1970年代くらいまであった牛乳工場のようです。

「学内くつ修理 石井靴店」は、学内に店舗を構えていたのか、それとも巡回してきていたのか、詳細不明です。1970年代頃は学内に理髪店もありましたので、靴の修理屋さんがあってもおかしくない気がします。

パンフレットの最終ページは学内の地図です。『東京学芸大学五十年史』の105ページに1951年3月末に東京第二師範学校から東京学芸大学に引き継いだ校地の図面が載っていますが、その1951年校地図では東門を入ってすぐのあたりに未使用地があったりするので、このパンフレットの地図はそれよりもあとの時代のように思われます。

『五十年史』の110ページに載っている1956年3月末時点の校地図を見ると、キャンパスが西側に大きく広がって、現在の敷地とほぼ同じ広さになっていますが、このパンフレットの地図は、まだキャンパスが西側に広がる前の時期であるように見えます。教室の番号の振り方を見ても、1956年校地図では教室数が増えて番号を振り直していることが分かります。

このパンフレットの地図にある「10番教室」は、1956年3月には「20番教室」と番号が振り直されていますが、1970年代頃には再び「10番教室」と呼んでいたような記憶があります。

これらの教室は、陸軍技術研究所時代の木造兵舎をそのまま、あるいは間仕切りし直したりして使用していたようです。その後、1~4号館などの鉄筋コンクリートの校舎が整備されたのちは、一部はサークル部室に転用されたり取り壊されたりしましたが、上記の10番教室のようにかなりあとまで教室として使用されていたものもあります。

さて、以上見てきたことから、このパンフレットを作った小金井祭は、だいたい1955年から1957年の間に開催したものなのではないかという推理が成り立ちます。映画館の広告を見ると1955年の可能性が高いように思えるのですが、当時のカレンダーを調べると、平日に始まって最終日の24日が日曜日となるのは1957年で、1955年1956年は曜日的にやや無理があるようでした。1957年説を採ると上記の1956年3月校地図とパンフレットの地図との齟齬があり、すっきりしませんが、このあたりで考察を終わりとします。

なお、学芸大学のキャンパスが小金井に統合されたのは1964年なので、この1950年代には小金井キャンパスでは1~2年生が学んでいました。

もしこのページをご覧になられて、このパンフレットの小金井祭の実際の開催年などをご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひコメント欄でお知らせください。

2014年2月15日土曜日

通信住宅バス停に名残をとどめる陸軍北多摩通信所

元陸軍北多摩通信所官舎の広場
小金井街道を走る西武バスの「通信住宅」停留所(残念なことにバス停の名称が2014年に変更になってしまったそうです)の名前の由来である元陸軍北多摩通信所。通信施設に隣接して建てられていた官舎の敷地中央の防火貯水池を囲む広場が、現在は住宅地の中の児童公園になっています。

同通信所は現在の東久留米市前沢5丁目と小平市花小金井4丁目にまたがって設置されていました。

 通信所自体の敷地は現在も大部分が国有地のようで、東久留米市側には自衛隊の官舎、小平市側には日本社会事業大学の宿泊施設が建っています。戦後しばらくは大きな鉄塔が残っていたようですが、今日、通信所の遺構などを見いだすことは難しそうです。

 一方、官舎跡をまわってみると、左の写真のように戦前に建てられたと見られる同じデザインの木造家屋が数軒残っていました。推測ですが、戦後、土地・建物が民間に払い下げられて普通の住宅地になったものと思います。しかし近所ではずっと「通信住宅」と呼ばれ、バス停の名前として現在まで残っているというのがなんとも不思議です。

数軒、正確には見つけられたのは3軒でしたが、その1軒は左の写真の通り、すでに廃墟と化し、周囲に木が繁っていました。近づいてのぞいて見ると、40年以上前のものと思われる古い電気洗濯機が見えました。

もともと官舎の一筆の土地をあとから分筆しているので、敷地の境界線が不自然にデコボコしていたり、人が通るのも大変な通路が塀と塀の間を通っていたりします。

北多摩通信所について当時の関係者などに詳しく聞き取りなどの調査をしてまとめた資料として鳥居英晴著『日本陸軍の通信諜報戦 北多摩通信所』(けやきブックレット)がお勧めです。

(2012年2月撮影)

2010年11月13日土曜日

陸軍の境界石


陸軍技術研究所の境界石です。研究所敷地の南東角に当たると思われる小金井保育園角から稲穂神社前交差点、小金井郵便局交差点、小金井二小先の角、さくら保育園裏、そして北西角に当たると思われる文化女子大まで歩いてみましたが、このコースではこの1個しか見つけられませんでした。特に北側の境界は、もともと狭い農道だったところを戦後に拡幅したり、道がなかったところに市道を通したような雰囲気の部分が多く、その際に合筆等により消滅してしまったのかもしれません。


この境界石は、20kmの速度標識とJAの看板の中間くらいのところにあります。市道と農地との境界に残っていますが、わざわざL型側溝の途中を切り欠いて残してあるようで、粋な計らいを感じます。


 (2010年11月撮影)

参考資料:板倉真也小金井市議の市政報告「市内の戦跡保存の取り組みに向けて」
 

大きな地図で見る

2008年11月26日水曜日

JR武蔵小金井駅北口ロータリー


高架化工事の始まる前のJR武蔵小金井駅北口広場です。西友前から駅を見た風景は今はまったく変わってしまいました。高架化工事が完了したときにはいったいどのような風景になるのでしょう。

(2001年5月撮影)